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2013.12.13 (Fri)

日本の結核の歴史と熊谷岱蔵先生

           日本の結核の歴史と熊谷岱蔵先生
             
                      岡山 博   仙台赤十字病院 呼吸器内科

                 はじめに
明治維新後、富国強兵、殖産興業政策のもと、製糸・紡績工場の劣悪な労働環境の中で先ず女工に結核は拡大し、男は人権が存在しない日本的軍隊生活の中で拡大した。
貧しい農村が女工と兵隊の供給地であったが、結核を発病して役に立たなくなった女工と兵士の廃棄場になり、結核は拡大し続けて都市だけでなく農村にも蔓延した。

太平洋戦争直前の昭和16年、第一内科教授熊谷岱蔵教授が初代所長として東北大学抗酸菌病院が作られた。

敗戦後は、戦後占領軍による結核の科学的対策と、社会の民主化、労働条件改善、抗結核薬開発により、結核は激減し、現在は当時の1%以下にまで減少した。

庶民にとって、明治以降太平洋戦争敗戦までの日本は戦争と結核の歴史と考えることさえ可能である。
日本の結核の歴史を、東北大学第一内科と抗酸菌病研究所を率いた熊谷泰造先生のことを含めて、考えてきたことをまとめた。

             日本の結核、終戦まで
弥生時代に日本に結核が存在していたことは、分かっている。
縄文時代に結核が存在していたかどうか、米とともに弥生人が大陸から伝えてきたようだが詳細はわからない。

その後も、天皇の記録などで結核が存在していたことと、明治までは大規模な蔓延がなかったこともわかっている。
大規模に結核患者が増えたのは幕末からで、明治になって富国強兵、殖産興業政策による社会になって結核は爆発的に増加し続け蔓延した。

人口が少なく、人々が密集しない農業社会では、結核患者が排菌をしても、感染は広範に拡大しなかった。ちなみに、奈良時代の日本の人口は約450万人と考えられている。

結核排菌患者が存在し、排菌を継続し、換気されず、結核菌が空気中に漂ったまま長時間とどまると空中に漂った結核菌を吸入して、結核感染は拡大する。
結核は感染した1~2割が発症する。治療をしなければ半数弱が死亡する。低栄養や、過労など、感染に対する抵抗力が低下した状態では、感染者における発症割合は増え、発症後の進展も早い。

結核の大蔓延が起こり膨大な人が死ぬのは世界史的には2つのタイプがある。
ひとつは、結核が存在せず人が結核に対する免疫を持っていない社会に結核菌がもたらされた時、もう一つは、換気と栄養状態が悪く、強制的労働環境で多数の人が働かされた場合である。

結核が多い社会では、発症していなくても多くの人は不顕性感染をしており、結核菌に対して免疫を獲得している。
しかし結核が存在しない地域の住民は結核に対する免疫を全く持っていない。
このような結核免疫がない社会に、結核菌がもたらされたとき、結核は蔓延し猛威を振るう。
更に、過酷労働や栄養障害など他の要因が加わればさらに広がる。

このような蔓延は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸と中南米諸島に結核菌をもたらし、社会を破壊した時に起こった。これについては省略する。

結核大蔓延の最大の原因だったものは、貧しく栄養や過労で体力がない状態で、人が密集し、換気が悪い場所で、長時間労働を強制されたことであった。
この典型が、産業革命以降の、労働者収奪的な大規模工場労働である。
世界的には、結核のすさまじい蔓延は、17世紀産業革命後のイギリスでまずおこった。
ドイツハンブルクでは、産業革命はロンドンより70年遅れたが、結核の急激な増加蔓延も70年遅れておこった。

日本で労働収奪的大規模工場労働と、それに伴って結核が急速に増加し、蔓延していったのは、明治維新後である。
江戸幕府の崩壊とそれに続く明治近代社会への変化は、幕藩体制ひずみの蓄積という内的な要因と世界史的な外的要因の上に起こった。

世界史的要因とは西欧列強によるアフリカ、次いでインド植民地化、東南アジアへ、そして中国(清)への進出支配である。

イギリスは清国の茶などを交易して利潤を上げようと、清に対して交易を要求した。
清は、貿易ではなく朝貢を提示したが、やがて受け入れた。
清の高低を敬い貢物を献上し、皇帝はその10倍くらいの土産を与えるというのが朝貢である。

しかし、清に輸出できるものをイギリスは持っていなかった。
そしてアヘンを売りつけ、中国社会を蝕んだ。清朝がアヘン貿易を禁止したことに言いがかりをつけて、イギリスはアヘン戦争を起こし、清は敗れた。
そして清社会は更にアヘンで蝕まれ、国土も蚕食されて西欧の半植民地にされた。

それまでの2000年間、中国は日本にとって常に偉大な教師であった。
その中華帝国が西欧に敗れ半植民地化されたことは日本にとってすさまじい恐怖であった。
日本が植民地にされていないのは、西欧列強にとって中国が大きな獲物で、日本はそれほど魅力的ではなかったからで、中国分割が進めば次の獲物は日本だと恐れた。

徳川幕府を倒した明治政府の最大課題は、日本が西欧列強の植民地にされないことだった。
そのために、西欧列強国に支配されない強力な軍事国家をめざした。
東アジアで西欧列強に支配されなかったのは日本とタイだった。タイは、内には国民の自覚を高め、外には軍備ではなく、イギリス、フランス、ロシア、中国を相手にして外交によって独立を保持した。

軍備や科学技術を整えるためには、外貨が必要だったが、外貨を獲得できる商品を日本は持っていなかった。
ただひとつあったのが生糸だった。

政府は、モデル製糸工場を作り、士族の娘が働いて成功した後は、民間に払い下げた。
日本中に桑畑を作って蚕を飼い、たくさんの製糸工場を作って製品化した。

明治以降昭和初期まで、日本の工場労働者の過半数は女性で、その過半数は未成年だった。
始めはエリート士族の子女が働いた製糸工場は、民間に払い下げられると、低賃金長時間半奴隷的労働という劣悪な労働をさせる工場になった。

女工は始め士族の子女が多かったが次第に貧しい農村が低賃金女工の供給源になり、やがて農村は、半奴隷的女工の供給地であるとともに結核に罹患した女工の廃棄場になっていった。

当時の製糸(絹)工場や紡績(綿)工場の様子は、「女工哀史」(細井和喜蔵)や、「職工事情」(農商務省工務課)や映画にもなった「ああ野麦峠」(山本茂美)に詳しい。


女工のほとんどは工場の寄宿舎住まい。20畳の部屋に20人が寝る。これを2交代で行う。
工場や寄宿舎の周囲は立派なレンガ塀で囲まれている。
外からの防犯よりは、女工が逃げ出さないためである。
出入り口には、守衛がおり、面会や出入・、門限が厳しく強制され、門限に遅れると厳しい罰則があった。

ほぼ強制的な前借金などで女工はがんじがらめにされていた。

食事副食は、朝は味噌汁と漬物2切れ、昼は豆やひじきなど夕は菜の煮たの、揚げ豆腐、塩鮭切り身などの1つ。
量は少なく1回がけ盛り付けられた。

味噌汁は醤油で色を付け塩出味をつけているだけだったので「味噌をいれてほしい。
味噌汁に全員にわたるだけねぎを入れてほしい」等を要求する争議も起きた。

それくらいだから暖房もなかった。
冬は二人分の布団を合わせて二人一緒に寝た。
おそらく寒さを防ぐために窓も閉めきっていただろう。

労働時間は12時間。体調が悪くても休めず休んだり外出から帰る門限に遅れたりすると罰金など罰則があった。

そのような労働環境の下で、結核は広がり猛威を振るった。

女工の多くは12~18歳で高齢でも23歳だった。
多くは1~2年程度で故郷農村に送り返された。
ほとんどの女工は結核に感染し、2割が発症し、その半数が死んだ。 
休ませず働かせて、重症化したり死にそうになると、工場で死なないようにその前に解雇した。

解雇される前に死んだ人も多い。
一般女性と比べて女工の結核死は23倍に上ったという香川県の報告もある。

「どうせ1~2年で帰ってしまうのだから、工場で労働力の保全に気を使うことはない」というのが多くの経営者の認識であった。
「兵器は金がかかるが、兵隊ははがき1枚で手に入る」と言った陸軍の風潮と共通する。

中には倉敷紡績の大原孫三郎のように、工場に女工のための病院を作って市民にも開放し、同時に労働医学研究所を作るなどして、女工たちの健康保全や労働環境改善に取り組む実業家もいた。

製糸工場経営にとって、必要な数の女工を集めることはもっとも重要な業務だった。
消耗品として、女工集めを専門にする下請けの女工集め請負人が沢山、農村に行って若い女性を集めた。

現実とひどく異なる良い偽りの労働条件を言ったり、性的関係を作るなど、偽りだまして集めることも多かった。
中には、結局製糸工場で働くこともなく、遊廓に売られることもあったという。
女工一人をあっせんすると女工の2か月分の給料に値する程度の金が支払われた。

野麦峠は飛騨高山から信州岡谷の製糸工場に働きに行く娘たちが、故郷を最後に振り返る峠だ。
そして、結核で解雇されたりして故郷高山に戻る峠でもあった。
故郷にたどり着けず、ここで死ぬ人もいた。

工場で騙されたり性的虐待を受けて妊娠し、故郷に帰る途中で出産する人もいた。「野麦峠」は「野産み峠」から来ているという俗論があるそうだ。

都市の工場で広まった結核は、結核のために解雇されて故郷に返った女工を介して農村に広まった。
このようにして、日本では、結核は都市だけでなく農村も含めて日本全体に蔓延した。

男の方が結核に抵抗力が低いが、昭和初期まで、男より女の方が結核死亡率が高かったのはこのためである。

男の結核死亡率は女より数年遅れて増加し続けた。
男は主に軍隊で感染し、軍隊内で広まった。重症化すると故郷の農村に返されて、農村での結核蔓延の原因になった。

戦前、政府・行政で結核を担当したのは内務省である。
内務省とは地方行政、治安取り締まりなどの警察、感染症などの衛生という内政を担当した有力官庁である。

軍隊内で結核が激増し続けたために、兵力の消耗を恐れた陸軍は、内務省に結核対策強化を命令したが、軍隊での結核蔓延は改善しなかった。
そこで陸軍は、専門的に結核対策をさせるために厚生省を内務省から独立させた。

結核対策を重視し、厚生省を作らせた中心人物の一人が石井四郎軍医中将である。
石井中将は731部隊の創始者最高責任者として有名である。

731部隊とは、陸軍が生物兵器開発のために満州ハルピンに造った機関。
捕虜や拉致した中国人やロシア人を1本2本と数えて残虐な人体実験を行った。

例えば、裸にして、間隔をあけた杭に縛りつけ、陶器に入れた細菌爆弾を破裂させて、どの距離でどのような爆発をさせると有効かと、爆発から、感染して死ぬまでを記録した。
実験としてのいみもほとんどなく、生体解剖自体を目的とした生体解剖実験も行った。
食物を与えず、井戸水か蒸留水だけ与えた時どのように死んでいくかを観察した。蒸留水だけ飲ませると、「味がついた水をくれ」といって死んでいったという記録が残っている。

猛威を振るった結核は、欧米では、第一次大戦で小さなピークを作った後減少していった。
デンマークやスコットランドでは、それ以前から結核は減少し続けていた。
この時代はまだ抗結核薬は存在していない。

第一次大戦時に結核死が増えて、多くの欧米諸国でピークを作ったのは、戦争とインフルエンザ=スペインかぜによって肺炎を起こしてたくさんの結核患者が死亡したことによる。

第一次大戦は機関銃と戦車が活躍した戦争だ。弾を避けるために塹壕を掘って長時間じめじめした不衛生な塹壕にとどまった。
雨も降った。そこでたくさんの兵士が肺炎で死んだ。
結核がある人は更に死んだ。

兵士以外も食糧事情や不衛生で沢山肺炎で死に、結核有病者は更に死んだ。
スペイン風邪が世界的に大流行し、インフルエンザ関連肺炎で数千万人が死んだ。これが大戦時結核死が増えた理由である。

大戦後欧米諸国の多くで結核が減少していった。
これは大戦とスペイン風邪で結核患者が死亡して、感染源が減少したことも理由であろう。

しかし、結核を減少させ、その後も減少を続けさせた最大の理由は、労働条件が改善したことと、抑圧的な社会が改善されたことである。

第一次大戦を前後して、世界中で労働運動と革命運動がおきた。
大戦前1886年、8時間労働を要求したシカゴの統一ストライキや、1990年の第1回国際メーデーなどの世界的に労働運動が高揚した。
大戦の中で、ドイツ、オーストリア、ロシアなどでは帝政が廃止され、アメリカのシカゴで始まったメーデーは世界に広がった。

労働運動の高揚によって、週休制や1日労働を8時間以内とするなど、労働者を保護する労働法がつくられ、労働条件が改善していった。発言や行動に対する抑圧が緩和された。

欧米で結核死亡率は改善していったが、フランスとオランダでは1940年前後の数年間、結核死が再び増加した。
ナチドイツに占領支配された時期である。

日本でも第一次大戦後、結核死は減少していったが昭和初期から再び増加し敗戦まで増加し続け猛威を振るった。
ナチドイツ占領下のフランスやオランダと同様な抑圧的な社会が日本国民に起こっていたからと思う。
フランスやオランダはナチドイツの占領軍によって言動の自由や栄養や社会生活が破壊されたが、日本では軍と警察が国民を抑圧した。

陸軍は、結核対策強化のために厚生省を作らせた。しかし実態は内務官僚が横滑りしただけで、科学的対策は行われず結核は増え続けた。

              熊谷岱蔵先生のこと
                    明治13年生
           東北大学第一内科初代教授、東北大学抗酸菌研究所(現加齢医学研究所)初代所長、
熊谷先生は糖尿病研究で世界的業績を上げていたが、蔓延し人々を苦しめていた結核に関心を移した。
当時、結核は結核菌初感染によって起こるのか、それとも、再感染した時に有害な免疫反応が起こって発症するのかわかっていなかった。
「誰もわかっていないからやってみろ」と、宮城県立第一女子高校検診を担当した中村隆先生(後の第一内科教授)に指示した。

ツベルクリン反応の経時変化を、ツベルクリン反応が(-)、あるいは(+)のまま変化しない、(-)から(+)に変化、(+)から(-)に変化の4郡に分けて解析すると、結核の発症者はほとんど(-)から(+)の群だけに存在することが分かった。
こうしてツベルクリン反応をという極めて単純な方法を用いて、結核が初感染で起こる感染症であることを証明した。
この研究は結核研究にとって最も重要な発見の一つである。

軍隊で結核が蔓延したことに対して、陸軍は、厚生省設置についで東北大学や北海道大学、京都大学等に結核研究所を作らせた。東北大学の抗酸菌病研究所はこのようにして太平洋戦争開戦直前の昭和16年にできた。

初代所長が第一内科教授熊谷岱蔵先生である。
国が熊谷先生に任命した結核研究所の附属病院の規模は約100床であった。
熊谷先生は、結核研究にとどまらず、実際に結核で苦しむ人びとに対して医療を行うべきと考えた。結核病床が圧倒的に不足している中で、熊谷先生は全国の企業や篤志家を回り、献金を募って国が予定した10倍の約1000床の結核病院を作った。

結核に関して熊谷先生のもう一つ話題にすべきは高橋実先生(元坂総合病院院長、日本民主医療機関連合会会長)のことである。

高橋先生は東北大学医学部在学中に、日本共産主義同盟にくわわり、大学内では社会医学研究会を組織して医療制度や職業病の調査活動などを行って検挙された。
退学処分となり、のち教授会により復学が認められた。
復学後、太田正雄(木下杢太郎)皮膚科教授の指導の下に「森鴎外の会」を作り、西洋の合理主義と東洋の論理思想の断絶を埋めたいと考えて活動した。

昭和13年、卒業業後直ちに、熊谷教授の斡旋で、岩手県志和村の診療所に3年間勤務した。

農村のすさまじい困窮の様子を見て、診療の傍ら、小学校児童検診を行い、更に、東北大学熊谷内科の協力のもとに、村当局や住民などと「志和村結核予防会」を作り、全村民を対象にして、ツベルクリン反応、レントゲン、喀痰、血沈検査を含む検診と結核対策を行った。

この結果は、農村の結核と、乳幼児衛生に関してまとめた名著「東北―純農村の医学的分析: 岩手県志和村に於ける社会衛生学的調查」として出版された。

この出版を最大の理由として、高橋先生は治安維持法違反で検挙され懲役2年執行猶予の有罪判決を受けた。

高橋先生がすでに軍や警察からマークされていることを知りながら、高橋先生を排斥せず指導援助した熊谷先生の業績としても記憶されるべきことと思う。
熊谷先生は「慈悲喜捨の心を養い・・・善を尽くし美を尽くす。医業を行うにはこれらの心構えが必要である」と記されている。

志和村3年間の志和村での活動を、高橋先生は戦後昭和21年に「愛は山の彼方に」を出版され、やがて、豊田四郎監督、池部良主演で東宝で映画化された。

同時期、太平洋戦争直前の1941年、京都大学の学生グループが治安維持法違反で大量検挙されている。
保険所所長からの要請にこたえて、たくさんの京大医学部学生が、福井県農村の結核調査をした。

その調査内容に栄養状態調査の項目があった。内務省特別高等警察(特高)は、栄養調査があることに対して(栄養状態が悪いと示すことで)厭戦気分を煽るものだ」として治安維持法違反疑いとして多数の学生を検挙した。
起訴された学生も、不起訴になった人も、卒後、軍医としてではなく、一兵卒として戦死配属させられたり、軍隊内や警察から常に監視をうけた。
このような時代であった。

結核の社会背景を調査するだけで逮捕するような、言動の自由と安全がない社会背景が、結核が蔓延した背景にあると私は考えている。

                 戦後の結核
戦後、日本に進駐した連合国占領軍は日本政府に科学的結核対策を指示したが、内務省上がりの官僚が指揮する厚生省は役に立たず、占領軍は対策として厚生省に医系課長を増やした。
しかし、有効な活動はできなかった。
厚生省役人を通してでは有効な結核対策はできないと判断した占領軍は、保健所と保健婦を使って直接結核対策を行った。
その後結核は激減し、減少傾向は現在までつづいており、結核罹患率や死亡率は最盛時の1%以下に減少している。

結核に対する有効な薬剤は1943年のストレプトマイシンが初めである。
結核が蔓延しているに日本で活動するためにアメリカ軍はストレプトマイシンを持ってきた。
日本人がアメリカと占領軍に従順なことを見て、占領軍は日本政府にストレプトマイシン製造を許可し命令した。」
連合軍による日本占領が始まり、ストレプトマイシンがもたらされた時期と、結核が激減し始めた時期は重なる。一見ストレプトマイシンが結核を激減させたように見える。しかし違う。

日本人と日本社会は結核薬がもたらされたことを喜んだ。
国産のストレプトマイシンが十分入手できるのには数年かかった。

量産し始めても入手は難しく、闇で入手した。
大学卒月給が数千円の時代1g1万円だった。
当時のストレプトマイシン使用基準は毎日1g注射を3か月である。資産家が財産を半分売って手に入れるという状態だった。

しかし、ストレプトマイシンは期待通りには有効ではなかった。
軽症患者のいくらかは治ったが、重症患者には無効で、中等症患者では一時改善しても再発し、再発した時は耐性化して、ストレプトマイシンは効かなくなっていた。
ストレプトマイシンは国民に大きな希望を与えたが、平均寿命を改善するほどではなかった。

結核が基本的に治ることが多い病気になったのは1960年代、ストレプトマイシン、イソニアチド、パスを含めた多剤併用療法が確立してからであり、1年以内の比較的短期治療で基本的に治る病気になったのは1970年代リファンピシンを含めた多剤併用療法ができてからである。

結核激減の最大の理由は、占領軍の系統的で科学的な結核政策と抗結核薬開発とともに、労働条件改善と社会の民主化だった

治療や予防を含む「結核医療を行う事は国と自治体の義務」であるという結核予防法を作り、結核を減らすために日本社会は全力で取り組んだ。昭和29年には、結核対策に全医療費の27%を使った。このころ、日本人の平均寿命が初めて60歳に届いた。
 
           現在の結核と日本の医療
1980年頃から、厚生省の医療政策は、良い医療をすることではなく、医療費を抑制することが基本目標になった。
更にその後、医療や教育も含めて、すべてを経済採算で評価する市場原理主義、グローバリズムへと拡大させた。

そして「結核医療を行う事は国と自治体の義務」と定めた結核予防法は廃止された。

病院採算性を厳しく追及されて多くの病院で、不採算部門であった結核病棟を廃止した。
文部科学省から厳しく追及されて、大学病院さえも結核病棟を廃止した。
難しい疾患に合併した結核患者は治療を受けることが困難になり、学生は結核患者と接する機会、医師は結核患者を診療して学ぶ機会が少なくなった。

東北大学病院も結核病棟を閉鎖した。
この時東北大学病院長から、仙台赤十字病院に「感染症病棟を工事するので、その間、結核患者を日赤病院で見てほしいい」という要請があった。
工事完成後は、閉鎖前と同じ規模で結核病棟再開する確約を得るために質問したが、回答はなく、完成後も結核病棟は再開されず、結局日赤病院がすべての患者を引き受けることになった。

結核診療が大幅な赤字になる仕組みであることのために多くの病院は結核病棟を閉鎖していった。
多くの病院では、それまでの結核医療の努力と成果を知らない新しく変わった院長が結核病棟を閉鎖させることが多かった。
新しい病院長は結核担当医に対して、「病院の赤字をどう責任とるのだ」と赤字が医師個人の責任であるかのように詰問し、邪魔者扱いして、結核を担当していた医師がいたたまれなくなって病院を辞めるか、不健全な人事を行って、結核診療を熱心に行っていた医師に屈辱を与えて結核病棟閉鎖をさせる病院がいくつもあった。

このような中で、私が勤める仙台赤十字病院も結核病棟を閉鎖した。

結核患者が減少したことは結核担当医をはじめとして担当者と社会が努力したことに負うものだったが、その成果と努力は讃えられることはなく、屈辱をもって追い払われることさえしばしばあった。

市場原理主義が横行し、なんでも経済的赤字黒字だけで評価し、現場で働く人や医師を、知識熱意がない官僚が、支配者のように威張って医療や社会を仕切る社会になった。
多くの医療機関の院長や事務長は、この変化に抵抗せず、むしろ積極的に同調して、病院従業員「管理」を強めた。
病院は「病院従事者が共同して良い医療を行う病院」から「管理者が従業員を強権的に命令管理する病院」に変わっていった。

市場原理主義は日本では独特の面を持っていた。
多くの社会で、良い接客マナーとは、互いに対等で友好的態度で接することだが、日本では、東京オリンピック後、70年代大阪万博ころから、消費者=客が上の身分で商人や従業員は客を上位者として下僕のように使えるのが当然という風潮が急速に作られた。

そして、医療も医療行為を売買する客と店員の関係であるかのような社会精神と患者の言動になった。

このような社会変化に伴って患者は「治って当然で、副作用が出たり、期待通りに治らないと主治医に不信感を持ち非難する」ようになった。

医師が知性と良心に基づいて安心して診療することが困難になり、病院経営者も医師も、良い診療をすることよりも、患者や社会から非難攻撃を受けない医療行為をすることに気を使うようになった。
病院経営者は、自らや病院が非難されにくいことを優先して、安易な対応をし、必ずしも医師や医療従事者を守らないことも増えてきた。

結核に限らず、医師や医療従事者が、道義性と使命感を持って仕事をすることが困難になってきている。
少なからぬ医療従事者や病院経営者はその状況に慣れて、そのような社会状況に適応する判断や精神を強め、社会的自覚が低下してきていると思う。

結核の歴史は、明治以降の日本人の苦しみと、それを克服してきた歴史でもある。
しかし、ほとんどの日本人は、苦しかった歴史と、努力して克服してきた歴史を知らない。

結核に限らず、治療を受けられることに感謝するのではなく、客として、病院や従業員の医師に、注文を付け、依頼するのではなく、「やって当然だろう」と、医師や看護師を非難し命令してやらせようという患者や家族が増えてきた。
「結核は自然に減ってきた」「治ってあたりまえ」で、期待通りの良い結果が出なければ医師や病院を非難する人も増えている。

結核は経過が長い。
戦前の結核は、工場や軍隊で感染した青年に多かった。
現在日本の結核患者の多くは老人である。
若いころ結核に感染して気づかぬうちに自然治癒したり、発病して治療を受けて治癒した結核が、加齢によって免疫などの結核に対する防御機転が低下して、休眠していたわずかな結核菌が再活動して再燃したものである。

日本で結核は今も減少し続けている。
これは1970年ころまで、日本社会が全力で取り組んだことの成果である。1980年以降から現在に至る結核対策の成果ではない。

1990年以降サハラ以南アフリカをはじめとする発展途上国では結核が激増し、その中でも、抗結核菌が無効な多剤耐性結核菌患者が増え、日本でも数は少ないが多剤耐性患者はでている。
人類はまだこの多剤耐性結核に十分対処する手段を持っていない。
多剤耐性結核を考えると、日本で結核がこのまま減少するとは断言できない。

この数十年間、日本社会は、大学や社会、医療分野などを含め、社会のどんな分野でも、指導的立場で働く人が「社会を良くする自覚を失い、自分や、自分たちの病院や大学等の組織の利益」だけを考えて言動するようになった。社会のためという場合のほとんどは、自分の行為を評価するために後から理由付けした、ある意味で、真実真剣がない偽りだ。

日本の医療と社会、文化、精神がこのまま進めば、個々の疾患に対する治療は進歩しても、社会を不健全にしたり、人々を幸せにしない医療になるかもしれない。

                  結語
戦前の日本を支えた「美しい生糸」は、おびただしい数の女工さんたちの命と人生と引き換えによって生産された。
命と人生と引き換えで作った生糸で得た外貨を使って軍備を強化し、戦争に使った。

明治初年から昭和20年の敗戦までの期間は日本の庶民にとっては「戦争と貧困と結核の歴史」として考えることも可能である。

昭和初期に生まれたほとんどの人は、自分や家族等ごく身近な人が、結核の恐怖におびえた経験を持っている。
終戦頃までに生まれた人の大部分は、家族でなくとも身近な誰かが結核で苦しんだことを親から聞いているはずである。

現代の日本人は自分に都合悪いことや、他人が苦痛の中で努力してなしとげてくれたことによって現在があることを話題にしない傾向がある。
結核だけではない。日本軍が中国で、おぞましい残虐や略奪を行ってきた。沢山の兵士が残虐や暴虐を行ってきたのに、話題にせず伝えないまま年をとり死んでいく。
話題にしないから、それらの歴史はまるでなかったかのように扱われ忘れ去られる。

努力の成果は感謝し喜ぶべきものではなくなった。自動的に自然に改善されたくらいの意識だ。「あって当然」、なければ文句を言う文化と精神になった。
自分では責任あることや他人のためにかかわることなどなにもせず、他人に文句非難を言う人に都合のよい社会運営と精神になった。

結核の恐ろしい体験をした人たちから体験を聞き集めるとしたら、今が最後の機会と考えたが、体験を集めることは断念した

同窓会誌からしばしば投稿のお誘いをいただいたが、長い間、なにも書かないままにしてしまった。最後の機会かもしれないと考え、熊谷岱蔵先生、東北大学第一内科のことにも触れて、日本の結核の歴史について考えてきたことを書きました。

資料
1) 岡山博:結核医療の歴史的成果と近年の後退.仙台赤十字病院医学雑誌.Vol19, 7-19, 2010.
2) 小松良夫:結核.清風堂書店.2000.

(注) 東北大学旧第一内科同窓会誌(平成25年発行)に 掲載した文章に一部加筆修正した。
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結核の歴史、興味深く読みました。有難うございます。

私の亡父は外航船の船長でした。若い時韓国戦争の軍隊で結核に掛かったが発病せず、私が大学入学した1982年発病して1986年吐血共に無くなりました。病気の中でも家族の生活の為船乗りした父の辛い胸を理解しなっかた自分を今も許していません。

私は先生の様に資本主義が新自由主義と結合して現れたグローバリゼーションの非人間的な属性を警戒しています。特に医療・教育のような人の為の最低守るべきの領域が西ユーロパ、日本で危うい目になっている程であるのは絶望的だと言っても良いでしょう。

それに対して解法の中の一つが「覚醒して個人の連帯」だと思います。後に述べる機会があると思いますが14年前切っ掛けがありました。最近は生活を中心しましたが最近の「放射能食品」論争に気付いて1ヶ月間個人時間を集中しました。

先生の仰った通り、低線量被爆の領域は人類がまだ知らない領域でしょう。でも日本政府は「安全だ」と言いながら色々過ちを犯した、が先生の要旨で理解します。

反面その領域を「非常に危ない」と言いながら色々過ちを犯しているのが韓国の市民社会だと私は判断しています。日韓両方大勢の考えが専門家グループの十分議論後出来るべきの社会合意を欠かせている共通点があります。

今日本では先生の様に覚醒した個人が沢山いると思います。私は「福島の思惟」と言います。でも現実を変わる力にはなっていない、非常に努力と時間が掛かるはずです。特にそんな人達は本質的に求道者ですから、運動家向きではないから。

私は「非常に危険だ」と言っている韓国の友たちが「日本産全面禁止」を追求するより「きちんとやれ」と日本政府に圧迫掛ける方が役に立つと思います。

その糸口が色々中「成田空港にある40,000台の外国からの測定器」が一番適切です。日本政府の考え方、事態に臨む態度の象徴として分かり易い例になると思います。

私はこれから先生のブログで拝見した「日本政府の過ち」を自分なり検索、韓国ネットへ紹介しようとしています。その作業の効果は疑問(私は「その様には心配要らない」と言ってますのでみにきていません。)ですが色々トライはすべきでしょう。

そこでご質問兼お頼みです。
1.いままで先生のブログに書かれた「日本政府はこうすべきだった」は2年前からの事です。今変化された事はありますか?
 (1)専門家グループの論争・社会的な合意
 (2)大したことなし扱い、成田空港の測定器
 (3)宮城県の測定値発表の状態 等々。

2.先生の開示物の中具体的リンクなないのは伝言でりかいしても宜しいでしょうか?(私が伝言扱いする際毎度再確認します。)

3.ブログの拍手、最近のコメントであまり流行っていない主題になったと思っても間違いないでしょうか、それとも最初から興味の対象ではなかったとも言えますか。(日本における先生の作業の意味、位置づけの質問です。)

(本文の第一回メーデの年度に単純誤記があります。)

私は先生のブログの被爆講演を中心して3個(給食の放射能...)よんで最近の4個を精読しました。これからはあちこちコメントを書きます。

セシュムの許容範囲に関して先生の考えをたいたい分かりました。整理して後に確認します。シバールトに関した質問はお時間ある時お願いします。自分として重要ですので書きました。
松の声 |  2013-12-16(月) 12:13 | URL [コメント:編集]

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 |  2013-12-13(金) 17:48 |  [コメント:編集]

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