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2013.11.15 (Fri)

③ウクライナ報告 ワークショップ、チェルノブイリ博物館

ウクライナ報告ー3 ワークショップ、チェルノブイリ博物館

       10月10日   ワークショップ

ウクライナ国立工科大学,ウクライナ日本センターとの共催で行われた。ウクライナ国立工科大学で,今後の福島のため,チェルノブイリの教訓をどのように生かすべきかを議論する「フクシマ・チェルノブイリワークショップ」が開かれ参加した。この会はユーリ・シチェルバク博士とVolodymyr Tykhyy博士のご尽力で実現した。
日本側参加者は私ども4人と、挨拶された坂田東一駐ウクライナ日本大使。
ウクライナ国立工科大学副学長,セルゲイ・シドレンコ教授の挨拶があった。日本からは、プシュパラール教授,福本学教授と大山弘一南相馬市議が発表した。ウクライナ側からは,チェルノブイリ原発事故の専門家たち5人が発表した。
(文章と写真→ 東北大学HP

私は正式の発表者ではなかったが時間をもらって小発表を行い、ウクライナの各分野の研究者に質問をして、いくつかの疑問を解決するつもりでいた。

私は、今回の訪問に後から誘っていただいて飛び入り参加したので、このワークショップについてよく理解していなかった。
ワークショップは、各界研究者が地涌に発言して問題を掘り下げる会というよりは、フォーマルで格式が高く、開くことに意義がある会だった。

私の疑問を解決する場にはならなかったが、ウクライナの方達の取り組みと熱意は驚きだった。
ワークショップにはテレビ局や新聞社がいくつも取材に来ていた。
東北大学HPより。文章と写真

ワークショップの休憩時間からテレビ記者に呼ばれて、私は会場の外で約20分インタビューに答えた。
私は福島と日本社会の状況を説明し、私の考えを述べた。
インタビューはテレビ記者がウクライナ語で私に質問し、英語に通訳されて英語で行った。

午前の発表が終わると,国家非常事態相主催で、私たち4人を意歓迎するフォーマルな昼食会が開かれた。
立派な昼食会は驚きだった。そこでウォッカが出されたのも楽しい驚きだった。
昼食会の後は、午後の発表プログラムが17時までびっしりあるにウォッカが出た。ストレートで飲む。
私は風邪で咳がひどくて飲めず残念だった。

彼の地では、ウォッカは40%アルコールが旨いと決まっていて、店にあるのもほとんどが、そして乾杯などで出されるものはおそらくすべてが40%アルコールのウォッカだ。どこでもそれをストレートで飲む。

    10月11日午前 キーフ市散策、教会訪問
午前自由時間
キーフの街をたくさん歩いた。
世界遺産を含むウクライナ正教とロシア正教の3つの教会を訪問した(略)。
キエフ WIKIPEDIA

     10月11日 午後  チェルノブイリ博物館訪問     
チェルノブイリ博物館 HP
→ Windows の翻訳機能が使える ウクライナ語→日本語
WIKIPEDIA チェルノブイリ博物館

博物館長と、物理学者 XX先生と、2日半、通訳として同行してくれたアントン チイヒーさんが迎えてくれた。

この博物館は100年以上前に建てられて、以前は消防署だった。
大惨事でキエフの消防士も動員されて活動した。
古い消防署の建物を提供してもらって、消防士たちが大惨事で活動した消防士仲間をたたえる記念館を作ったものが、この博物館のはじまりだ。

その後、大惨事の関係資料が集まるようになって、記念館は国立博物館になって活動を続けている。
当時の政府や行政の問題点を提示し、被曝対策などを訴える博物館の活動は、国の方針と合致しないものもあるが、活動に国から干渉はなく国から独立して自主的に活動しているそうだ。

博物館入口には数台の車が展示してある。大惨事のとき活動した車だ。
福島原発事故に関連した特別展示をしていた。

玄関を入ったホールには、鯉のぼりや、福島被災者と日本人に連帯し支援する、日本語メッセージや、福島原発事故関連資料が展示してある。
福島関連展示は博物館の展示全体の20%位を占めている。
福島原発事故以来、日本人の訪問者が増えてこれまで3000人が訪れたそうだ。
展示の説明録音は日本語も用意されていた。
とても良い説明だったので、文章化したものはないか尋ねたがないとのことだった。費用も人員も不十分なので文章化して出版する予定はないそうだ。

見学順路は、ホールから階段を上がって2階に上がる。
88の標識が階段両側の壁から飛び出して掲示されている。大惨事後住民が避難して消滅した町の名前だ。
階段の床には、赤い実をつけた、リンゴの木が沢山描かれている。

赤い実をつけたリンゴの木の展示は階段だけでなくホールにもあった。
キリスト教カソリックと、カソリックから別れたプロテスタントの解釈では、蛇にさそわれ、イブに勧められて知恵の見であるリンゴをアダムが食べたことが、人間が神を裏切った神に対する人間の原罪で、その原罪に対する罰として人は神から労働や死や、出産の苦しみの罰を与えられたということになっている。

しかし、旧約聖書は本来ユダヤ教の聖書であるが、ユダヤ教では、知恵の実であるリンゴをアダムが食べたことはそれだけのことで、神に対する重大な裏切りとは考えない。リンゴはむしろ生命を象徴するという。
キリスト教はみな、リンゴと原罪と神からの罰をセットにして理解していると思っていたが、正教(ギリシャ正教、ロシア正教、ウクライナ正教)の考え方は、ローマカソリックやプロテスタントとは異なっていて、ユダヤ教の理解に近いらしい。

リンゴは生命の象徴として展示しているようだ。
チェルノブイリという名の語源は、リンゴという言葉と関係あるという説もあるそうだ。

階段を上った正面は教会内部のような展示になっている。
被曝して消滅した教会から資料として寄贈されたものだ。
この博物館でも、他のところでも「大惨事のことは聖書に書かれている」と言っている人がいた。
新約聖書の最後にあるヨハネの黙示録のことだ。

ウクライナの人たちはどこでもだれもが「チェルノブイリ原発事故」と言わずに「大惨事」という言葉を使っていた。

階段を上って正面は教会内部の展示だが、見学順路は階段を上って右に曲がる。
この部屋は、爆発した4号炉の模型と、原発事故で活動した消防士たちの装備と、従事して亡くなった原発職員と、消防士や作業員の何百人の顔写真などが展示されている。

チェルノブイリ事故を起こした4号機は当時最新鋭で、設計をした学者は「高圧系が少ないので、事故をおこす可能性が低い、もっとも安全な原子炉だ。モスクワの中心に造ることも可能だ」と言っていた。
アメリカのスリーマイル事故があった時も「事故はアメリカの原子炉だから起きた。ソ連の原子炉ではあのようなメルトダウン事故は起きない」と言っていたという。
高圧系がないことは事実であっても、その他いろいろな点で、欧米の安全基準では基準以下のところがあったと後でわかった。

以上は展示の説明。
以下は同行してくれた青年物理学者アントンさんの説明。

「核分裂反応は核燃料の間に制御棒を入れてコントロールするが、制御棒の先端20cmの構造は、これを燃料の間に入れると逆に核分裂反応を促進してしまう構造であることが、大惨事の2年以上前にわかっていたが、改造せずに事故まで放置されていた」という。

事故はこうしておこったらしい。
「原子炉の安全性をテストするために、出漁定価作業中の原子炉で、安全性を見る実験をするように指示された。出力低下中の実験ということがまず危険だったらしい。一方で別の指示系統から、電力が不足しているので発電を続けるよう指示が出た。
両方を同時に行うマニュアルはないが、当時のソ連は上級が決定したら、下級の人は異論や議論をすることは困難で、すれば、人事権を使って、不都合な部署に左遷されるという状態だった」という。
健全な発言や議論が自由に安全にできない状況は今の日本とよく似ている。

しかも、核分裂反応を抑えようと、制御棒を入れると、ことにゆっくり入れると、核分裂反応は抑制されるのではなく逆に促進してしまうという構造的な欠陥があった。
このような中で事故がおきた。

爆発したが想定外の事故で、想定されたマニュアルもなかった。
技師たちは、避難するか、事故現場にとどまるかを考えたが多くの技師は留まって、猛烈な被曝を受けながら事故終息のために活動した。

事故を起こした4号炉と3号炉は隣り合って共通の建屋の中にあり直接つながっている。技師たちは、3号炉と4号炉の配管を遮断し、これによって3号炉が爆発することを回避できた。

4号炉は核燃料がメルトダウンして冷却水を沸騰させて水蒸気爆発を起こした。
次には、核燃料容器のジルコニウムが水と反応して大量の水素ガスが発生して、水素爆発おこることが推測された。これも懸命な配管遮断を成功させて、次に起こる水素爆発を回避させたと説明されていた。

その後黒煙が燃える火事の消火や、メルトダウンした燃料が地下の水に接触して再び水蒸気爆発を防ぐために地下の水を除く原子炉直下までのトンネル工事などを行うためにたくさんの人が動員されて被曝し、その後たくさんの人が死亡したり重篤な健康障害を残した。

事故のさらなる拡大がないところまで終息させた後、事故の原因究明が課題だった。
原子炉を運転した技師の数人が、判断ミスをしたために事故を起こしたとして、裁判にかけられて、10年の禁固刑を受けた。やがて、この技師たちの名誉は回復されて、5年で釈放になった。

原発の構造的欠陥を放置した幹部、事故につながるような指揮系統を作り運営した幹部、恐らく無謀な指示を出した幹部の責任は全く問題にされなかったという。

広島・長崎原爆の展示もあった。
たくさんの展示を見て、最後に玄関入口に続くホールに戻り、福島原発事故関係の展示を見た。
福島の被災者と日本人への励まし、連帯、支援の精神に満ちていた。

南相馬市の地図が掲示されていた。南相馬全市を500mの方眼で区切って、すべての方眼の空間線量を測定し色分けして表示してあった。

私はこのような、詳細な汚染地図が存在していることを知らなかった。
だれがどのようにしてこの汚染地図を作ったのかを私は館長さんに尋ねた。

以下は館長さんの説明だ。
「福島原発事故が起きるとすぐに、チェルノブイリの汚染地区の人々は、励ましと支援活動をした。
その一つが、募金活動をして、放射線測定器を130台、日本の被災地に送ったことだ。
日本のチェルノブイリチューブの人たちが協同した。
贈られた測定器を使って、南相馬の人たちは自分たちで測定してこの詳細な汚染地図を作った」という。

福島原発事故が起きると、汚染地域で役立つようにと、世界の各地から事故後数日の短期間に4万個の放射線測定器が日本に贈られた。
これを早く使えるように要望が出たが、国は汚染地域に配って測定や対策に役立たせることをせず、最後まで成田空港の倉庫に保管したまま、被災地で使わせなかった。
贈ってくれた人々と、被災者に対する背信行為だ。

ウクライナの人たちは経済的に貧しい。その人たちが、募金をして贈ってくれたことに私は感謝し感動した。
同時に、世界から短期間のうちに贈られた測定器を被災者のために使わせず、報道を規制して「あわてるな、心配するな」と繰り返し、自主的対策や避難を妨げ、被爆を拡大させた日本政府と行政、日本社会のことの両方を考えて涙が出た。
ウクライナから送られた測定器は南相馬の被災者に直接届けられたから役立った。放射線測定器を、日本政府に託していたら使えなかった。
日本はなんという国だ。

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この訪問でわかった、考えた事、評価したこと、新たに気付いた問題点、解決できないまま今後の問題意識として残っていることなどを、後日追加する予定です。

→ 同行した大山弘一さんのブログ

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