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2013.11.19 (Tue)

朝鮮と日本女性は、嘘や脅迫で売春させられた

朝鮮女性と日本女性は、嘘や借金背景の脅迫で管理売春させられた
   ―― 従軍慰安婦 別の視点から ――

明治以来、日本政府は生糸、綿紡績製品を輸出して外貨を得てその資金で富国強兵を続けた。
製糸工場や紡績工場で働くのは女性だったから、明治から昭和初期まで日本の工場労働者の半数以上は女性(女工)で、その半数以上は未成年だった。

製糸、紡績工場では女工が逃げないように高い塀があり、門に見張りを付けた。
記録「女工哀史」「職工事情」や「ああ野麦峠」など沢山の資料に詳しい。

過酷な労働条件と寄宿舎生活でほとんど全員が結核に感染し2割が発病し、7%が死亡した。そして彼女たちは平均2年で退職したりさせられた。
「どうせ2年で辞める女工に健康管理するのは無駄だ」というのが多くの経営者の考えだった。

経営者の最重要課題は2年で辞めてしまう女工の穴を埋めるために、農村から女性を集めることだった。
紡績会社は女工を請負人に集めをさせることが多く、女工を一人紹介すると女工の約2か月分の給料を手当として請負人に払った。
請負人は夢のような非現実的な嘘の労働条件を説明してだましたり、借金で縛り付けて集めた。
工場に行くための支度金や旅費を借金させて縛り付けた。

全国の農村から少女たちは、良い就職先があると騙されて故郷から離れて生死工場、紡績工場に就職した。
寄宿舎に入ってみると、「良い労働条件が保障されている。学校にも行ける、習い事もできる、たくさん貯金ができる」と説明されたような夢のような労働条件は存在しなかった。

農村で育って初めて親元を離れて町の向上に就職した少女たちは、工場や不当な奴隷的契約の工場から逃げたり解決する能力も条件もなかった。
高額の旅費を借金して日本に来た朝鮮の少女たちは、さらに借金に縛られていた

製糸・紡績工場寄宿舎からの外出は厳しく制限されていて、町の商店よりずっと高い生活用品を買う以外になかった。
代金は借金として蓄積されて、就職の際に意図的に作らされた前借金にさらに追加された。
外出した際の門限の遅れや些細なことでも、罰や罰金が課されて借金は増えた。
借金による束縛は自分の意思による退職をさらに不可能にした。

就業条件の良い製糸工場に就職したつもりだったのに、請負人にだまされて工場には行かずはじめから遊廓に売られた少女たちもいた。

製糸、紡績工場から逃げても収入はなく、遊廓に売られたり借金の方で拘束された女性もいた。
貧困な小作農の少女たちが、親の借金の穴埋めとして遊廓に売られたことは公然の事実だ。
日本の農村の小作農がの娘は親の借金を払うために遊郭に身売りし、借金を払うための売春契約をさせら、借金が払い切るまでの売春契約をさせられた。
このようにして全国の貧しい農村の多くの女性が遊廓に売られて管理売春を強いられた。

遊廓に入ったら、やめることも逃げることも殆ど不可能だった。
彼女たちの一部は従軍慰安婦になったりさせられた。
遊廓を介さないで、従軍慰安婦になった女性もいる。

日本の少女もこのように騙され脅迫されたり。借金で拘束されて遊廓や慰安処で売春した。
日本の農村の少女が騙されたり脅迫されたり、借金・前借金名目で、止める自由がなく拘束強制されて売春させられたのに、半島人と見下された朝鮮女性が日本女性より優遇されて嘘や脅迫や前借金名目で、やめる自由がない強制売春から除外されることはありえない。

嘘や脅しを含めた女工集めや、遊郭への強制・半強制を含む管理売春を強要させられる道筋は、日本女性より朝鮮女性に対しての方が更に過酷だった。
日本人の偏狭な優越感とセットの朝鮮女性に対する蔑視と、高額の渡航費用の前借り金が挑戦の少女たちには日本の少女の困難に加えてさらに追加されていた。

日本の女性は嘘や脅迫、借金のかたで遊廓に売られて売春を強要された。
だから当然、日本の植民地だった朝鮮の女性も同じことをされた。
日本の少女も朝鮮の少女も同じように、拒否できない強迫的状況や嘘や暴力で遊廓に売られ、遊廓であるいは戦場慰安所で辞める自由がない管理強制された売春をした。

朝鮮女性も嘘や脅迫や不当な借金のかたで、遊廓に売られて管理売春を強要され、一部は従軍慰安婦になった。
朝鮮女性の日本人相手の売春行為について、それ以外の答えはない。
朝鮮女性も日本女性と同様に嘘と脅しで売春を強要され、名誉も人としての尊厳も人生も健康・寿命も破壊された。

朝鮮の女性だけが慰安婦にされたと言ったらそれは誤りだ。
しかし「朝鮮の女性が嘘や脅迫で慰安婦にされなかった」というのは誤りであるだけでなく、被害者を貶める加害の上塗りだ。

朝鮮の被害女性が現在、抗議し賠償を求めているが、日本の女性は朝鮮の女性たちのように名誉回復と賠償を訴えることをしていない。
日本の女性にそのような歴史的事実がなかったからではない。
日本の被害者が公然と抗議や名誉回復要求、賠償要求をしていないだけだ。

売春を強要されたり従軍慰安婦になり、名誉と人生を破壊された女性たちが、抗議や賠償培養要求や名誉回復の訴えをしないのは、日本の人と社会が彼女たちを応援したり連帯しないからではないか。

日本人は、自分の安全が確保され相手が自分より目下とみなした時に、侮辱することで偏狭な優越感を得ようとする言動傾向がある。
自分の優位性と安全が確認できると、相手を見下して優越感を得ようとする傾向が強い。
立場が弱い人を見下し更に苦痛の追い打ちをかける傾向が強い。

戦争中に苦痛と屈辱を受けた日本女性がそのような訴えを今日本ですれば、名誉回復や賠償を獲得できず、逆に経済や人間関係や名誉を破壊さるという恐怖心があるためにしないのではないか。
自分より下級とみなしうる人に対して、日本の人と社会が冷淡だからではないか?

「朝鮮女性が嘘や強制で慰安婦にさせられてはいない」と主張する人たちは、日本人の女性が公然と遊廓に売られて、止める自由が無い状況で強制されて管理売春をし、逃げることもできずに多くの女性が無念のうちに死んだ事実を否定するのだろうか?
「遊廓に売られて売春させられた日本の女性も朝鮮の女性も嘘や強制はされなかった、みな自ら自由な判断で遊廓に入った」と主張するのだろうか?
最終的に自分の意志で同意した場合でも、止める自由がなく、不当に借金を増やし、止める自由がない奴隷的拘束を行ったことは奴隷的拘束だ。

それとも「日本人女性は借金のかたや嘘や脅しで契約させられやめる自由がない拘束下で売春を強制されたが、朝鮮女性だけは日本女性とは異なり嘘や脅迫や脅しはなく、全て自由意志だった、やめる自由も保障されていた、強制や嘘はない」と主張するのだろうか?

製糸工場・紡績工場では嘘や借金名目の脅しによる女工集めがあったが、「朝鮮女性に対する女工集めと売春に関してだけは嘘や脅しによる女性集めははなかった、すべて紳士的な自由意思による契約だった」というのだろうか?

日本社会は今、加害者や加害者を正当化する人たちが、被害者に詫びて名誉回復させたり償ったりするのではなく、逆に加害者が被害者を攻撃侮辱する人が増えた。
日本社会は今、そのような言動が批判されないやくざ社会になった。
日本人の中でやくざ的精神・人格が増えているということだ。

異論を言う人は反日と言われて侮蔑非難され、自由に発言できないだけでなく、発言する人の存在さえ脅かされる恐ろしい社会になりつつある。

被害者を守らず逆に恫喝侮辱することを容認する社会は、日本国内で日本人が被害を受けた時にも侮辱恫喝される社会になったということだ。

加害者が被害者に難癖をつけて、侮蔑非難攻撃する精神と言動は危険だ。
真面目に発言する自由と安全がない社会に日本は急速に進んでいる。

このような社会では、個人の名誉、尊厳、人格は無視、蹂躙される。
道義性や良いことをし悪いことをしないという規範、誠実、優しさ、真面目さは打算と暴力によって抑圧されて、一人一人の精神、言動、精神、言動からも消えていく。
既に、日本社会と人々の精神と言動の仕方の現実になっている。

発言の自由と安全が制度的にも保障されなくなって抑圧が制度化されることと、暴力脅迫によって人の発言行動ができない事件が起きるようになったときに、戦前と同じファシズム・恐怖社会が完成する。
今、日本は恐怖社会に向かって急速に進行している。

道義性、知性、自覚、優しさ、勇気のどれも育てず劣化した。
社会と人の精神、まともさが劣化してここまで来た。

その行き着く先は「朝鮮人は強制されて従軍慰安婦になっていない。朝鮮女性が自由意思でやったことだ」と主張する人たちが支配する社会だ。
止めたい。
一人一人の名誉と言動の自由が保障される健全な社会にしたい。
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2013.11.15 (Fri)

③ウクライナ報告 ワークショップ、チェルノブイリ博物館

ウクライナ報告ー3 ワークショップ、チェルノブイリ博物館

       10月10日   ワークショップ

ウクライナ国立工科大学,ウクライナ日本センターとの共催で行われた。ウクライナ国立工科大学で,今後の福島のため,チェルノブイリの教訓をどのように生かすべきかを議論する「フクシマ・チェルノブイリワークショップ」が開かれ参加した。この会はユーリ・シチェルバク博士とVolodymyr Tykhyy博士のご尽力で実現した。
日本側参加者は私ども4人と、挨拶された坂田東一駐ウクライナ日本大使。
ウクライナ国立工科大学副学長,セルゲイ・シドレンコ教授の挨拶があった。日本からは、プシュパラール教授,福本学教授と大山弘一南相馬市議が発表した。ウクライナ側からは,チェルノブイリ原発事故の専門家たち5人が発表した。
(文章と写真→ 東北大学HP

私は正式の発表者ではなかったが時間をもらって小発表を行い、ウクライナの各分野の研究者に質問をして、いくつかの疑問を解決するつもりでいた。

私は、今回の訪問に後から誘っていただいて飛び入り参加したので、このワークショップについてよく理解していなかった。
ワークショップは、各界研究者が地涌に発言して問題を掘り下げる会というよりは、フォーマルで格式が高く、開くことに意義がある会だった。

私の疑問を解決する場にはならなかったが、ウクライナの方達の取り組みと熱意は驚きだった。
ワークショップにはテレビ局や新聞社がいくつも取材に来ていた。
東北大学HPより。文章と写真

ワークショップの休憩時間からテレビ記者に呼ばれて、私は会場の外で約20分インタビューに答えた。
私は福島と日本社会の状況を説明し、私の考えを述べた。
インタビューはテレビ記者がウクライナ語で私に質問し、英語に通訳されて英語で行った。

午前の発表が終わると,国家非常事態相主催で、私たち4人を意歓迎するフォーマルな昼食会が開かれた。
立派な昼食会は驚きだった。そこでウォッカが出されたのも楽しい驚きだった。
昼食会の後は、午後の発表プログラムが17時までびっしりあるにウォッカが出た。ストレートで飲む。
私は風邪で咳がひどくて飲めず残念だった。

彼の地では、ウォッカは40%アルコールが旨いと決まっていて、店にあるのもほとんどが、そして乾杯などで出されるものはおそらくすべてが40%アルコールのウォッカだ。どこでもそれをストレートで飲む。

    10月11日午前 キーフ市散策、教会訪問
午前自由時間
キーフの街をたくさん歩いた。
世界遺産を含むウクライナ正教とロシア正教の3つの教会を訪問した(略)。
キエフ WIKIPEDIA

     10月11日 午後  チェルノブイリ博物館訪問     
チェルノブイリ博物館 HP
→ Windows の翻訳機能が使える ウクライナ語→日本語
WIKIPEDIA チェルノブイリ博物館

博物館長と、物理学者 XX先生と、2日半、通訳として同行してくれたアントン チイヒーさんが迎えてくれた。

この博物館は100年以上前に建てられて、以前は消防署だった。
大惨事でキエフの消防士も動員されて活動した。
古い消防署の建物を提供してもらって、消防士たちが大惨事で活動した消防士仲間をたたえる記念館を作ったものが、この博物館のはじまりだ。

その後、大惨事の関係資料が集まるようになって、記念館は国立博物館になって活動を続けている。
当時の政府や行政の問題点を提示し、被曝対策などを訴える博物館の活動は、国の方針と合致しないものもあるが、活動に国から干渉はなく国から独立して自主的に活動しているそうだ。

博物館入口には数台の車が展示してある。大惨事のとき活動した車だ。
福島原発事故に関連した特別展示をしていた。

玄関を入ったホールには、鯉のぼりや、福島被災者と日本人に連帯し支援する、日本語メッセージや、福島原発事故関連資料が展示してある。
福島関連展示は博物館の展示全体の20%位を占めている。
福島原発事故以来、日本人の訪問者が増えてこれまで3000人が訪れたそうだ。
展示の説明録音は日本語も用意されていた。
とても良い説明だったので、文章化したものはないか尋ねたがないとのことだった。費用も人員も不十分なので文章化して出版する予定はないそうだ。

見学順路は、ホールから階段を上がって2階に上がる。
88の標識が階段両側の壁から飛び出して掲示されている。大惨事後住民が避難して消滅した町の名前だ。
階段の床には、赤い実をつけた、リンゴの木が沢山描かれている。

赤い実をつけたリンゴの木の展示は階段だけでなくホールにもあった。
キリスト教カソリックと、カソリックから別れたプロテスタントの解釈では、蛇にさそわれ、イブに勧められて知恵の見であるリンゴをアダムが食べたことが、人間が神を裏切った神に対する人間の原罪で、その原罪に対する罰として人は神から労働や死や、出産の苦しみの罰を与えられたということになっている。

しかし、旧約聖書は本来ユダヤ教の聖書であるが、ユダヤ教では、知恵の実であるリンゴをアダムが食べたことはそれだけのことで、神に対する重大な裏切りとは考えない。リンゴはむしろ生命を象徴するという。
キリスト教はみな、リンゴと原罪と神からの罰をセットにして理解していると思っていたが、正教(ギリシャ正教、ロシア正教、ウクライナ正教)の考え方は、ローマカソリックやプロテスタントとは異なっていて、ユダヤ教の理解に近いらしい。

リンゴは生命の象徴として展示しているようだ。
チェルノブイリという名の語源は、リンゴという言葉と関係あるという説もあるそうだ。

階段を上った正面は教会内部のような展示になっている。
被曝して消滅した教会から資料として寄贈されたものだ。
この博物館でも、他のところでも「大惨事のことは聖書に書かれている」と言っている人がいた。
新約聖書の最後にあるヨハネの黙示録のことだ。

ウクライナの人たちはどこでもだれもが「チェルノブイリ原発事故」と言わずに「大惨事」という言葉を使っていた。

階段を上って正面は教会内部の展示だが、見学順路は階段を上って右に曲がる。
この部屋は、爆発した4号炉の模型と、原発事故で活動した消防士たちの装備と、従事して亡くなった原発職員と、消防士や作業員の何百人の顔写真などが展示されている。

チェルノブイリ事故を起こした4号機は当時最新鋭で、設計をした学者は「高圧系が少ないので、事故をおこす可能性が低い、もっとも安全な原子炉だ。モスクワの中心に造ることも可能だ」と言っていた。
アメリカのスリーマイル事故があった時も「事故はアメリカの原子炉だから起きた。ソ連の原子炉ではあのようなメルトダウン事故は起きない」と言っていたという。
高圧系がないことは事実であっても、その他いろいろな点で、欧米の安全基準では基準以下のところがあったと後でわかった。

以上は展示の説明。
以下は同行してくれた青年物理学者アントンさんの説明。

「核分裂反応は核燃料の間に制御棒を入れてコントロールするが、制御棒の先端20cmの構造は、これを燃料の間に入れると逆に核分裂反応を促進してしまう構造であることが、大惨事の2年以上前にわかっていたが、改造せずに事故まで放置されていた」という。

事故はこうしておこったらしい。
「原子炉の安全性をテストするために、出漁定価作業中の原子炉で、安全性を見る実験をするように指示された。出力低下中の実験ということがまず危険だったらしい。一方で別の指示系統から、電力が不足しているので発電を続けるよう指示が出た。
両方を同時に行うマニュアルはないが、当時のソ連は上級が決定したら、下級の人は異論や議論をすることは困難で、すれば、人事権を使って、不都合な部署に左遷されるという状態だった」という。
健全な発言や議論が自由に安全にできない状況は今の日本とよく似ている。

しかも、核分裂反応を抑えようと、制御棒を入れると、ことにゆっくり入れると、核分裂反応は抑制されるのではなく逆に促進してしまうという構造的な欠陥があった。
このような中で事故がおきた。

爆発したが想定外の事故で、想定されたマニュアルもなかった。
技師たちは、避難するか、事故現場にとどまるかを考えたが多くの技師は留まって、猛烈な被曝を受けながら事故終息のために活動した。

事故を起こした4号炉と3号炉は隣り合って共通の建屋の中にあり直接つながっている。技師たちは、3号炉と4号炉の配管を遮断し、これによって3号炉が爆発することを回避できた。

4号炉は核燃料がメルトダウンして冷却水を沸騰させて水蒸気爆発を起こした。
次には、核燃料容器のジルコニウムが水と反応して大量の水素ガスが発生して、水素爆発おこることが推測された。これも懸命な配管遮断を成功させて、次に起こる水素爆発を回避させたと説明されていた。

その後黒煙が燃える火事の消火や、メルトダウンした燃料が地下の水に接触して再び水蒸気爆発を防ぐために地下の水を除く原子炉直下までのトンネル工事などを行うためにたくさんの人が動員されて被曝し、その後たくさんの人が死亡したり重篤な健康障害を残した。

事故のさらなる拡大がないところまで終息させた後、事故の原因究明が課題だった。
原子炉を運転した技師の数人が、判断ミスをしたために事故を起こしたとして、裁判にかけられて、10年の禁固刑を受けた。やがて、この技師たちの名誉は回復されて、5年で釈放になった。

原発の構造的欠陥を放置した幹部、事故につながるような指揮系統を作り運営した幹部、恐らく無謀な指示を出した幹部の責任は全く問題にされなかったという。

広島・長崎原爆の展示もあった。
たくさんの展示を見て、最後に玄関入口に続くホールに戻り、福島原発事故関係の展示を見た。
福島の被災者と日本人への励まし、連帯、支援の精神に満ちていた。

南相馬市の地図が掲示されていた。南相馬全市を500mの方眼で区切って、すべての方眼の空間線量を測定し色分けして表示してあった。

私はこのような、詳細な汚染地図が存在していることを知らなかった。
だれがどのようにしてこの汚染地図を作ったのかを私は館長さんに尋ねた。

以下は館長さんの説明だ。
「福島原発事故が起きるとすぐに、チェルノブイリの汚染地区の人々は、励ましと支援活動をした。
その一つが、募金活動をして、放射線測定器を130台、日本の被災地に送ったことだ。
日本のチェルノブイリチューブの人たちが協同した。
贈られた測定器を使って、南相馬の人たちは自分たちで測定してこの詳細な汚染地図を作った」という。

福島原発事故が起きると、汚染地域で役立つようにと、世界の各地から事故後数日の短期間に4万個の放射線測定器が日本に贈られた。
これを早く使えるように要望が出たが、国は汚染地域に配って測定や対策に役立たせることをせず、最後まで成田空港の倉庫に保管したまま、被災地で使わせなかった。
贈ってくれた人々と、被災者に対する背信行為だ。

ウクライナの人たちは経済的に貧しい。その人たちが、募金をして贈ってくれたことに私は感謝し感動した。
同時に、世界から短期間のうちに贈られた測定器を被災者のために使わせず、報道を規制して「あわてるな、心配するな」と繰り返し、自主的対策や避難を妨げ、被爆を拡大させた日本政府と行政、日本社会のことの両方を考えて涙が出た。
ウクライナから送られた測定器は南相馬の被災者に直接届けられたから役立った。放射線測定器を、日本政府に託していたら使えなかった。
日本はなんという国だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この訪問でわかった、考えた事、評価したこと、新たに気付いた問題点、解決できないまま今後の問題意識として残っていることなどを、後日追加する予定です。

→ 同行した大山弘一さんのブログ

07:17  |  放射線  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
2013.11.15 (Fri)

②ウクライナ報告 コルストン市、ルグニ町

ウクライナ報告ー3  コルストン市、ルグニ町

        10月8日、9日 コロストンン市、ルグニ町訪問
高校教師ユーリーさんがコロストン市とルグニ町の沢山の地域と施設訪問と沢山の方たちと面会、質問する機会を準備してくれて、丸2日間同行してくれた。

コロストン市はチェルノブイリ原発から西に直線で110 km。
市街地を約1時間散策した。市庁舎や、ウクライナ正教会を遠望。整備されたかなり広い公園を少し歩いた。
市庁舎前には、今もレーニン像が立っていた。

         ウクライナ風ホテルに2泊
独立した昔の民家風の木造建築。1棟3人ずつ2棟に6人宿泊した。
構造の基本はログハウス。丸太を横向きに積み上げて壁にしている。

元NHKディレクター 馬場朝子さんと、このホテルで合流し交流と意見交換をした。
馬場さんは NHK・ETV特集 「チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告(2)ウクライナは訴える」をコロステンで取材し2012年09月23日に放映された。
この時の取材の様子はNHKディレクター 山内太郎氏との共著「低線量汚染地域からの報告」として出版された(NHK出版)。
(追記:馬場さんがこの時取材した、トNHKETV特集「原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡」 が2014年8月23日、放送された。多くのことを知り考える材料を提供する優れたドキュメント。私も画像出演している)

馬場さんは、熊本の高校を卒業後、モスクワ大学に入学、卒業後1977年NHKに入社。
主にソ連やロシア関係の番組制作や取材をし、2011年NHK退職し独立して、現在は制作した番組をNHKに提供している。
今回は「チェルノブイリ法」取材のためウクライナを取材中だ。
彼女とプシュパラール先生が交流があり、今回コロステンでの意見/情報交換となった。

リハビリテーションセンター訪問
 知的障害を含む障碍者のためのリハビリセンター
 チェルノブイリ事故と直接関係ないので省略

           ルグニ町訪問
チェルノブイリから西に110kmのコロステン市からさらに西に約20kmの町。
コロステン市より放射能汚染が強い。
990km2。人口 17000人 事故前36000人。

町全体が、自主的避難の権利があるゾーン3で、その中に強制避難のゾーン2の地区が4つある。
町の人口は現在も毎年500人ずつ減っている。
人口減少の約半数が移住による減少で、残り約半数が出生数と死亡数の差による自然減だという説明だった。
平均寿命も低下し、死亡率も増えているが特に出生数の減少が著しいということのようだ。
ウクライナ全体が平均寿命短縮と出生率低下の傾向があり、国全体の人口も減少し続けている。

             ルグニ町の役所訪問
敬意訪問の予定だったが、副町長と、社会保護部長ともう一人3人の方が歓迎して迎えてくた。
町の現状説明や約2時間質疑応答をしてくれた。

副町長ともう一人の方は気さくで好人物だったが3人目の方は、身なりもきちんとして、威厳を持つ表情で、昔のソ連の官僚はこんなではなかったろうかと思った。
しかし話し始めると、威圧的や権威を示して抑圧しようということはなく終始、的を外さない質疑応答と友好的で快適な良い対話をしてくれた。

行政のこの3人の方だけでなく、学校の生徒でもどこでも共通で気持ち良い言葉の往復ができて快適だった。
質問して的を外さず的確な回答はここだけでなく、今回ウクライナ訪問であった人たちはずっとどこでもそうだった。
このような対話、回答の仕方は一夜漬けではできないことだ。

私たちの質問に的確に答えてくれた。
病気のことなど具体的なことはわからないので、この後の病院訪問で聞くようにと勧めてくれた。
回答に必要な時はその場で資料を取り寄せて資料を直接見せてくれて、説明してくれた。

町全体が自主は何移住の権利が個人に認められているゾーン3地域だが強制移住のゾーン2の強制移住地区が4つある。
このゾーンわけに基づいて放射能対策と被ばく者補償をしている。

しかしゾーンが指定され、強制移住や自主的移住権や被爆者に様々な補償をする制度が出来上がったのは大惨事後3年以上たってからだ。
ゾーンの設定は1989年にソ連で制度を作った当時の空間線量・被ばく量で決めた。
ゾーン制定当時の年間被曝5ミリシーベルト以上をゾーン2 強制移住地域、1~5mSvは自主的避難の権利がある地域と決め対策が始められた。

しかし、ゾーン決定とそれを基準にした対策が開始されたて1年しないうちに、ソ連が崩壊した。
社会システムと経済が混乱しソ連の後ろ盾を失った状態で、1991年から放射能対策はウクライナ政府が行っている。

現在の空間線量は、制定当時より低下しているが、ゾーンが決められた後はゾーンの変更は行わず、空間線量が減った今も対策や補償格下げをおこなわずに当時の汚染レベルに基づいたゾーンわけに基づいて対策が行われている。

制定当時年間被曝5ミリシーベルト以上は、ゾーン2、強制移住区域、年間1~5ミリシーベルトはゾーン3で個人の意思によって移住が認められる移住の権利がある地域と定められた。

移住する場合は、新たな住居や移転費用は全額補償される。
しかし、新たに職を探すなどの保証などは十分にはされなかったようだ。

避難移住する場合は、国が住居を買い上げる。
この買い上げ価格に国が新たに負担して移住先住居を保障する。

ウクライナ政府によるチェルノブイリ被ばく対策は1991年から始まった。
92までに3年以上汚染地域、ゾーン1,2,3の地域に住んでいた人を補償・保障する制度。

住居保障  住居保障  自分で選んだ場合は上限がある 
一人当たり13.05m2 + 10.5m2/家族
月200円食費補助と燃料費の50%
29000人が17000 に減った。昨年は500人が減りその50%が避難移転
ゾーン2 強制避難地区。ルグニ町内に4地区ある。人口はそれぞれ200人~300人程度だった。
1地区は全員避難移住し、現在人はいない。
他の3地区は移住拒否者が13人~35人くらいが残って今も住んでいる。
避難移住下がその後戻ってきた人もいる。

ルグニ町で癌と甲状腺疾患は日常的だという。
昔と比べ、老人の病気が若い人でも起きる。老年病の若年化。子どもの病気が治りにくくなっている。詳しいことは病院で聞くとよいと言っていた。

7~18歳は サナトリウムに年25日~6週間くらい保養に行く権利があり、70%が毎年参加している。
6歳以下は親の同伴が可能。無料。世界の募金と基金で運営している。

サナトリウムで保養したときに療養と、診断、必要あれば治療を受ける。
ここで見つかる異常は多い。

町民全員に年1回、ホールボディーカウンターで内部被曝の検査をしている。
質問すると何度も必要な書類を取り寄せて説明してくれた。

いくつか質問すると、全員の個人の生データーリストを見せてくれた!
1ページ40人分くらい
時間がなかったので3~4ページをざっと見た。正確に記録さず、おおよその感じでは、
成人のホールボディー計測値の70%くらいは900~4000Bq。 。
500以下は1割程度しかいない。
半数は2000~3000Bq 以上。
6000以上も2~3割くらい。
みせてもらったページにはなかったが、最高は153000Bq !ということだった。 

大人で2000Bq であれば20Bq程度のセシウムを毎日摂取していると推測される。

当初(1991年)の許容基準は19000Bq だった。
その後基準は大人は13200Bq、子どもは8200Bqに下げた。最近は3000以上は注意としているとのことだ。

食品規制をしているが、森でとってきて食べるキノコやベリーや自家菜園は規制できないと言っていた。
基準値そのものが高いが、それも守られていない。

ソ連が崩壊すると、コルホーズ、ソホーズという大規模集団ぬ上も解体された。
現在の農村は、大規模な商品作物栽培は少なく、私が見た範囲はすべて自給自足的農村だった。

農民はほとんど自給自足的な食品を食べている。さらに近所の山に行ってベリーやキノコを採って食べる。
貧しくて食物をあまり買う余裕がないという面もあるが、ウクライナの人たちは、山に行ってベリーやキノコ採りをすることが好きだ。
採れたら、格別のものとして喜んで食べ、友人にもプレゼントする。

昭和30年ころの穏やかな日本にそっくりだ。
商品流通に乗らないこのような山の幸を規制することとは難しく、経済状態やキノコ採りが大切な文化になっている中ではさらにそうだ。
市場を通さない農作物や山菜摂取がセシウム内部被曝の主因だ。

福島市や郡山市より汚染が軽いルグニ町のチェルノブイリ事故28年の現実だ。

系統的全員検査ではないが、福島でのホールボディーカウンターの値は幸いにもこれよりはるかに低い。
これは国が食品を厳しく規制しているからというよりは、日本では農業地帯での自給自足的な食生活や、山野で採取した食物摂取が低いことと、消費者と食品業者が、政府が出したセシウム食品基準 100Bq/kgによらず、それよりずっと低い値の食物を選んで消費や流通させていることが大きな要因と考える。
政府基準の100Bq/kg の米を毎日200g 食べると 全身ではおおよそ2000Bq になる。(米飯として食べるときはは精米しといでから食べるのでこれより低くなる。1日2食米飯を食たり、せんべいや米粉を材料にした食品を食べると米摂取はもっと多い)。

通訳に同行してくれている若手物理学者アントンさんは以下のように言っていた。
キノコやベリーはむかしから日常生活の一部になっている。
摘んで自分たちでも食べるが、買付業者に売る。
良い稼ぎになる。この収入を生活費などに当てている。
その場で果物などは、棒状の放射線測定器を差し込んで測定する。
基準値以上の場合、ブルーベリーは食用ではなく染料、インクの材料として買い付けられている。

        ルグニ町の学校訪問
義務教育の6歳から17歳まで11学年の生徒が同じの学校で学んでいる。生徒数250人の学校。
最高学年のクラスの授業を中止し、校長先生をふくむ4人の先生とともに私たちと交流する集会を開いてくれた。

私たちは制限なく何でも質問できた。
私たちのメンバーから出された質問で、原発をやめるべきと答えた生徒が半数、代わりの電源を造るまでは原発はやむを得ないが半数。原発を積極的に進めるはゼロだった。
将来、健康などに不安があるかについてはほぼ全員が不安だと答えた。
生徒たちからも、私たちにも質問が出た。
私には、福島の被災者に日本政府はどのようなことをしているかという質問があった。
授業を討論会に振り替えたり、自由に発言や質mぉんが出たりということは日本では考えられないことだ。

生徒たちは感情的な言葉を使わず、自分の状況の説明と自分の考えを、しっかり丁寧に友好的に発言した。
二人の少女の発言は特に印象深かった。

集会後、校長室で先生たちと30分ほど懇談した。
「生徒たちにとって癌や様々な病気は特別の話題ではない(ほど多い)。一昨年は白血病がふたりでて、一人は死亡した。
昨年から今年の1年間ではがんが2人見つかった。
がんがみつかった2人とも先ほどの会に参加している。これから会って話しても構わない」と校長先生が言った。

お願いすると、二人の少女を呼び、紹介したあとで「教師生がいると話がしずらいかもしれない」と言って先生方は退席されて、私たちは16歳または17歳のふたりの少女と話した。
ふたりともとても聡明だ。彼女たちは親友であるらしかった。

一人はサマーキャンプで甲状腺がんが見つかって手術をうけた。
甲状腺ホルモンが作れなくなったので甲状腺ホルモンを現在も今後もずっと服薬し続ける。
転移して残っているかもしれない甲状腺がんに対して、放射性ヨウ素I-131で服薬治療を続けていると言っていた。

原発事故で放射性ヨウ素を内部被曝すると被曝した人の一部に甲状腺がんができる。
放射性ヨウ素で甲状腺がんを治療するというのは、服薬した放射性ヨウ素から出た放射線を浴びた甲状腺がんが残らず死滅するだけの大量の放射性ヨウ素を内服する。

原発事故による放射性ヨウ素祖による内部被曝よりも桁違いに多い量を服薬して内部被曝させて甲状腺細胞を死滅させる。
これが甲状腺がんに対する放射性ヨウ素を使った治療だ。

彼女の今後の人生は、それだけの被ばくを受けた体とともに存在する。

もう一人の16または17歳の少女は、骨格筋の悪性腫瘍(肉腫)ということだ。
現在抗がん剤治療を受けている。
面会後知ったことだが、抗がん剤治療のため、頭髪はぬけてかつらということだった。
骨格筋肉腫は甲状腺がんと違って生命予後は悪い。今後何年も生きるのは難しいだろう。

ふたりとも自分の病気を理解している。
今後のことも理解していると思う。
そのような二人が、自分の状態と自分の考えを感情的な表現や投げやりなところはなく、まっすぐにしっかりきちんと話した。
(追記:骨格筋 肉腫の少女アンナさんは2014年5月に亡くなった)

悪性腫瘍頻度があまりにもおおいので、平均して毎年2人悪性腫瘍がふたりみつかることは想像しにくいが、ひとまず毎年ふたり見つかると仮定して考えると以下のようになる。
250人の中で毎年ふたり;2/250= 0.008 (0.8%)
ひとりの子供は11年間在籍するから、11年の間に悪性腫瘍が見つかる可能性は0.008 x 11 =0.088
子供は11年の在学中に悪性腫瘍になる可能性は 8.8% (10000人に880人) !
ガンは1つの細胞からはっせいし、診断される大きさになるまで多くは10年以上かかることをかんがえると卒業後数年間に見つかる可能性も高い。入学前に発症することもありうる。
これらを総合すると10% 以上の子供が成長期に悪性腫瘍になる計算になる。
日本で18歳までに悪性腫瘍(がん + 肉腫 + 白血病)になる頻度は1万人に1~2人である。
ことを単純に比較すると1000倍になる。
子供の10% が悪性腫瘍になるのはあまりにも多すぎて信じがたい。おそらく私たちが聞いた2年間は特別多かったのではないかと想像するが確認できていないので不明である。
毎年の悪性腫瘍が平均すると仮にこの1/4、つまり2年に一人だったとしても100人に2.5人ということになりこれでも極めて高い。
上述したように、福島でおホールボディーかうんたーによる内部被爆値は、ルグニ街より明らかに低いので、ルグニ街と比べると被曝による健康障害はル具にまちより少ないとすいsくできる。
しかしる具に街の子供の悪性腫瘍は極めて多いのでそれより少ないとしても、注視すべきである。
子供たちに汚染食物を与えない取り組みが重要である。

        ルグニ中央病院訪問
チェルノブイリ大惨事前から勤めている男性病理医師イワンさんと女性内科医師・副院長が対応してくれた。
約1時間質問し、話しをした。
「病院がカバーする人口はルグニ町17000人。95床。医師28人、内科医2人」。

病院の診療圏:人口17210人、990平方キロ
95床。内科医 2人全医師28人。
検査室 簡単な血液検査、尿検査しかできない。
赤血球白血球血算と血液の簡単な生化学検査 1日約100人
胃カメラ検査は毎週他の病院から来て検査しているようだった。

国が貧しく、心電計やレントゲン機会も40年前のものを使っている。
気管支鏡など高度の診療は行っていない。問題がある患者は高レベルの病院に紹介する。

女性副院長と、大惨事当時を知るふたりの医師の説明を聞き質問をし、答えてもらった。
医師が説明してくれたのは、この病院についてのことだ。
高汚染地域全体や、ウクライナ全体のことについては話題にしないまま終わった。

説明してくれたのは、大きな母集団を分析した統計ではなくこの病院で原発事故当時から働いている医師として、この病院で治療した患者全体についての記録と、診療を行ってきたイワン医師の印象だ。

1986年4月26日大惨事直後の記憶。イワン先生の話.
「4月28日、ピクニックに行って、ソーセージの上にほこりのようなものが落ちてきた。空に雲のようなものが見えた。
外国放送などで事故を知ってからも人々は無頓着だったが、官僚の家族が避難したのを見て初めて不安になった」

「大惨事のあと、癌が2倍に増えた。死因の中で癌は4位から2位になった。
昔はなかった癌が出ている。甲状腺がんが0から2例、白血病が0から多数、悪性リンパ腫は2年で3人。癌以外の甲状腺疾患も増えた。甲状腺結節が0から多数に増えた。

平均寿命が約10年短くなった。
健康な子供が激減した。気管支炎など、子どもの病気が治るまで時間が長びく。
老人の疾患が若い人で起こるようになった;疾患が若年化した。高血圧など循環器疾患や糖尿病、骨や軟骨の疾患が増えた」と言っていた。

「IAEA は、長期的影響は若年者甲状腺がん以外の放射線被ばく障害を認めていないが」と質問した。
イワン医師は「疾患は増え、若年化し内容は明らかに変わっている。IAEA は正しくない」と回答された。

その後病院内を見学した。
入院している病室の中まで入って見せてくれた。

検査室とレントゲン室も見た。
検査室では簡単な血液検査と尿検査しかできない。
レントゲン機械は2台とも40年前のドイツ製だ。
レントゲン設備に高感度モニターはなく解像度が荒い昔のテレビかフィルムに撮影されたものしか見ることができない。

そのため画像も悪く、詳しい検査はできない。患者も医師も被ばく量が多いはずだ。
古い機械なのでメインテナンスのため1日おきにしか使えないと言っていた。

「ウクライナは経済的に貧しいので検査機器が買えず40年前のレントゲンと心電計を使ってる。簡単な血液検査と尿検査程度しかできない。問題ある患者が出たらキエフ等の大病院に紹介する。日本から心電計や簡易型の血糖測定器や尿試薬など援助してもらえたらありがたい」と医師は言っていた。

翌日ルグニ中央病院を再訪問しこの二人の先生と昨日の続きの質疑をした。
イワン医師は、ルグニ病院の過去のすべての悪性腫瘍の記録を自分のノートに控えていた。

大惨事前の20年間と、大惨事後のたくさん種類がある悪性腫瘍患者の統計まとめており、それを持参し見せてくれた。医師からそのコピーをいただいた。

大惨事以降、がん死2倍。死因の4位から2位に
甲状腺がん 0から多数
白血病 0から多数
甲状腺結節 0から多数
その他20以上の悪性新生物の大惨事前後の発生数比較など。

「気管支炎や消化器病など、子どもの病気がよくなるのが長くかかる。
老年病が早い年齢におこるようになった」
小さい病院の内部データだけについての話。

Q: 内部被曝規制が甘すぎるのではないか?
事故当時だけの被ばくではなく、現在の被ばく、特に食料による内部被曝も現在の健康障害に関与しているのではないか?
甲状腺がんだけを認めるIAEAの考えをどう考えるか?
回答「現在の内部ひばくも関係ある。IAEAの評価は正しくない。森で採取したり、売買を通さない自家作物は規制がむずかしい」

           ゾーン2強制避難地区訪問
自主的移住の権利と補償がされるゾーン3のルグニ町とルグニ町内にある強制移住のゾーン2の4地区のうち3地区を2日かけて訪問した。

強制避難と指定された4地区の原発事故前の人口は各2~300人だった。
強制避難の4地区のうち1つの地区は全員が集団避難して現在は無人。
他の3地区は13人から35人の住民が現在生活している。

ゾーン指定されたときに、移住しなかった人が多いが、移住してから戻ってきた人もいる。
大惨事後、1つの地区は集団で移転して新しい集落を作りその後はずっと無人だが、他の3地区はそれぞれ現在13~30数人が住んでいる。
初めから移住しなかった人が多いが一時移住した後戻ってきた人もいる。

強制移住に指定されたゾーン2の3地域は全員が、年金と様々な補償金と補償施策と、自給自足的農業をして暮らしている。
それぞれの地区に看護師がいて、頼りにされている。
看護師は外から移住したのではなく、もともとその地域に住んでいた看護師や、住人が看護資格を取った人たちということだった。

公営バスが町まで運行されている。
電気は通じている。水は井戸。電話は携帯電話を使っている。
暖房や調理などの燃料は一部まきも使うが基本的には石油。
家畜用や農作業関係、戸外などでは、山で採ってきたまきを使っている。
石油や必要な商品は携帯電話で注文すると町の商店から配達してくれる。


汚染されたゾーン2とゾーン3の地域に住んでいた人には、額は多くないが、移住してもしなくても、生活や医療や様々な補償と年金の優遇がある。
燃料代と電気代の50%が補償さる。
これで質素な生活は可能だと言っていた。

第2ゾーン(強制避難地区)に指定された時、人々は「すでに大量被曝を受けているので今更避難しても価値は低い。だから避難移住するのではなく、それぞれの集落に保養や義楽施設を作って快適な生活環境を整備するほうが住民の利益になるのではないか」という意見が住民にも行政にもあった。

そのための施策として例えば200数十人の村にナイトクラブ(という表現をしていたが、村人が気楽に集まって飲んだり話したりできるパブや喫茶店のようなものと思う)やその他の娯楽施設を作って、生活を快適にする施策の方が良いという考えで、ナイトクラブをはじめ具体的な計画もされたそうだ。
しかし最終的には強制避難の方針となったという。

訪問したゾーン2の地域で空間線量は毎時0.33μシーベルトを一時示したが、その後は0.07~0.25μSv/hrで、想像していたよりずっと低かった。3か月前郡山市を訪れた際、除染された公園で常時測定し表示されていた値が0.25μSv/hrだ。
森の中に入っても大差なかった。
道路のすぐわきは広葉樹の森で、紫のブドウや、緑と真っ赤なリンゴが沢山実っていた。

51歳男性はここで奥さんと年金と自給自足で生活している。
子どもや孫たちはキーフなどに移住した。
この人の弟さんは、先日避難先で亡くなって、村に埋葬した。

避難した人の住居や生活費のなにがしかは保障されるが、「新しい環境や仕事探しで苦労したり精神的な苦痛やストレスもあり、無理してかえって健康も壊している」とこの人は言っていた。
ゾーン2で暮らし続けている人はみな同じ考えのようだ。

被曝地域の男性は普通より若い51歳から年金をもらう。女性はさらに若いうちに年金が支給される。額は低いがいろいろの手当てがあり基本的には自給自足なので、つつましい生活はできる。

会ってお話をした強制避難地区に住んでいる方は5~6人だけだったが、顔つきも皮膚も皆65~70歳くらいにみえた。しかしみな50歳代前半だった。
この人たちが偶然、年齢より老けて見えたのか、被爆の影響で老化が進んだのかわからないが印象的だった。

空間線量はさほど高くないが、自家栽培の食物は汚染されているようで、これを毎日食べている。

翌日も別のゾーン3、強制移住地区を訪問し、大惨事直前に新築したという立派な家に入れて歓迎してもらった。
自家製ウオッカや野菜サラダ、キュウリ漬物、豚脂身の塩漬け(ウクライナの郷土料理)、ビンに保存していた山で採ったキノコ料理など、歓迎してくれていろいろだしてくれた。
ウオッカと豚脂身塩漬けはいただいたが、キノコはいかにも放射線が高そうなので遠慮した。

「(こんなゆっくりできるなら)昨日奥さんと山に行ってたくさんキノコを採って来るのだった」と残念そうに言っていた。山にキノコ採りに行くことや、山で採ったものを近所の人や客、知人に提供することはウクライナの人にとって、楽しくうれしいことのようだ。

日本外務省関係で通訳している、キエフ在住の二本松出身の女性は「今年は雨が多く、山のキノコが豊作なのでキーフの人は喜んでいる。私もキノコ採りに行こうと誘われた」と言っていた。

消費生活レベルは貧しいが、激烈な苦痛や不安が少なく、穏やかで温かい生活感覚や、生活レベルは、昭和30年ころの日本の穏やかな農村ととても似ていると思った。

バスが運行されていて町に行くにはこれを利用する。
電気は供給されている。テレビも見ることができる。
携帯電話で注文すると町から商品を車で届けてもらえる。

暖房や調理の燃料は基本的に石油だ。
農作業や家畜のえさ準備やその他の家の外で使う燃料はまきを使う。
ゾーン2かゾーン3に住んで被ばくした人たちは移住してからも、燃料代と電気代が50%補償される。

ルグニ町は人口は激減したが美しい。汚染された環境の中で、人々は穏やかに暮らしているとように見えた。


     夕食
1日同行してくれた・・さんの知り合いの、街道に一軒だけある粗末な小さな食堂に招待してくれた。
街道を通る車の運転手が食べる食堂。売店を兼ねる。

自家製ウォッカを自宅まで取りに行ってごちそうしてくれた。
ビートから作った砂糖に酵母を入れて法治すると2週間で酒になる。それを蒸留する。
全て家で行う。大体うまくいくが時に、アルコール度が十分上がらず失敗することがある。

豚脂肪の塩漬け。豚脂肪の塊を塩漬けあるいは燻製にする。刺身のように切って食べる。
ジャガイモ つぶしてペースト状にして皿に波型に盛りつけたものと、ハンバーグのようなもの。

ボルシチ 家庭や店で非常に違う。
赤い色は、ビート大根の色。ビート大根、表面だけでなく中まで赤い。

自家製ウォッカ  砂糖に酵母を入れ2週間で発酵しこれを蒸留する。家庭で作る。
酵母がよくないとたまに失敗しアルコール分が低いものができ、これは捨てる。

(2014年8月24日修正)
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2013.11.12 (Tue)

①ウクライナ、チェルノブイリ訪問報告  序

ウクライナ、チェルノブイリ訪問報告-1  (序、 チェルノブイリ・キエフ)

        はじめに 
東北大学大学院国際文化研究科 教授 プシュパラール ディニル 先生のチェルノブイリ・福島プロジェクトの一環として、2013年10月5日から10月13日まで、フクシマ・チェルノブイリワークショップ参加を含め、チェルノブイリ原発事故に関係して、ウクライナを訪問した。

メンバーは
・プシュパラール 先生。東北大学大学院国際文化研究科 教授
・福本学 先生。東北大学加齢医学研究所教授 
・大山弘一さん。 南相馬市議、元高校教師
と私、岡山博 仙台赤十字病院医師の4人
放射線被曝や被ばく対策、原発についてなど、それぞれ考えが異なる4人のメンバー。
私は1日遅れて10月6日出発し、キーフ(キエフ)で合流した。

日程
10月5日 先発隊出発
10月6日 岡山博出発。先発隊に合流。キーフ泊
10月7日 チェルノブイリ原発訪問 (コロストン市でウクライナ風ホテル宿泊)
10月8日コロストン市リハビリセンター、ルグニ 町周辺の現地調査:自治体関係者、ルグニ中央病院、強制避難地区 (コルストンで宿泊)
10月9日 コルストン「Koroston 市と, ルグニLugyny 町周辺の現地調査:ルグニ学校、ルグニ中央病院(再)、別の強制避難地区、田舎の街道沿いトラック運転手のための小屋のようなレストラン (キーフ泊)
10月10日 (午前は自由。私は教会めぐり)。午後、キーフチェルノブイリ博物館 (キーフ泊)
10月11日10時~17時 フクシマ・チェルノブイリワークショップ(キーフ泊)
10月12日 キーフ出発

I.ウクライナの私の基礎知識と訪問して追加した知識と印象
ウクライナは面積と人口はフランスやドイツ、スペインに匹敵するヨーロッパの大国。
首都はキーフ(キエフ)。
ウクライナのほぼ全体が北海道より北にある。
南部の一部が黒海に面しているが、地中海や太平洋などの大海には面していない。
独自の通貨、独自のウクライナ語を持つ。
面積 日本の1.6倍。山地は西の一部にあるだけで、ほとんどは広大な平地と台地。
1970年代ころまでは世界的な大穀倉地帯だった。
人口 1986年チェルノブイリ原発事故当時約5000万人
    チェルノブイリ事故後、現在は約4600万人に減少し、減少傾向は今も続いている。
歴史 東ヨーロッパ文化の誕生がキーフだった。世界の歴史でキリスト教布教の多くが侵略と強制による布教がほとんどだが、キーフは自主的に検討して選択してギリシャ正教を選び学び受け入れた。
これがやがてビザンチン帝国滅亡後、モスクワを第3のローマとして活動した正統キリスト教(ギリシャ正教→ロシア正教)の母体となった。
その後ウクライナはポーランドやロシアの勢力のもとにおかれるなど複雑、困難な歴史がある。
ロシア革命後はソ連邦の中のウクライナ共和国として存在したが、白ロシア(ベラルーシ)とともに、ウクライナはソ連邦とは別に国際連合に加盟していた。

ソ連時代、ことに70年代までは世界的穀倉地帯。鉄鋼・炭田をもとに製鉄業など鉱工業も盛んだったが鉱物資源は次第に枯渇して鉄鋼業その他、経済は全般的に後退した。
ソ連時代後期は全般的に経済が停滞し、ソ連崩壊後、さらに経済を含めた社会全体の混乱後退があり、独立当時のレベルに回復していない。ソ連時代と比べて、名目GDPも70%程度と現在経済的には豊かではない。
大学卒20歳代大学卒で月収数万円。現在国民の収入や消費生活水準は日本の20~30%くらいか。

官僚によるわいろ社会が横行しているということだった。
ほぼ公然とわいろが要求され、わいろを出さないと、許認可権を使って仕事ができなくさせられるなどの例を、日本人の通訳の方が言っていた。

ウクライナ独立後も、ソ連時代の考え方や制度は残っているものが多い。
医療と教育は無料というソ連時代からの理念を今も維持している。
医療は無料という理念はもっているが、経済的余裕がないために、不完全だ。。
病院に通院、入院して検査や治療は無料で受けられる。
しかし、薬は処方してもらって薬局で自費で買わなければならない。
新しい薬の多くは輸入品で高価なため、だれもが買えるようにはなっていない。

地方の医療レベルは低い。私が訪問した町の病院の印象は以下のようだ。
資金がないため、検査機器がない。検査試薬も少ない。
レントゲンと心電図は40年前の機器を使っている。
レントゲン画像を高解像度モニターで見られないため、画像解像度も悪く、患者も医師も技師も被ばく量が多い。精密な検査はできない。メインテナンスのため週3日しか使えない。
検査室では簡単な血液と尿検査程度しかできない。日本の地方病院の40年前の様子と似ている。
古くなった検査機器を日本から援助して送ってもらえたらと、医師は言っていた。

教育
義務教育は6歳から11年間。
教育は幼稚園から大学、大学院まで無料。さらに奨学金がある。
「教育程度は高い。日本の大学院生ができないようなしっかりした発言を高校生がする。アメリカの一流大学から、優秀な学生を探しにウクライナに来る。そのようにしてアメリカに渡ったウクライナの科学者がすでに5人ノーベル賞をとっている。その時国籍はウクライナではなくアメリカになっている」と、今回訪問のリーダーであるプシュパラール先生が言っていた。
今回高校生を含む多くの人と会話して、なるほどそうだろうと了解した。

今回のウクライナ訪問でたくさんの人と会い、会話した。
必ずしも高等教育を受けた人たちだけではない。
会って話した人の中で、高等教育を受けた人々では、医師、学校の先生や校長先生、若い物理学者、行政の幹部、チェルノブイリ博物館館長、今回の訪問を準備してくれた物理学者、高校の先生、リハビリ施設の先生など。
会話というほどではないが、学会や国政の幹部の方とも会った。

必ずしも高等教育を受けていない人では、高校生、強制避難地区の住民、田舎のレストランの方、チェルノブイリ原発の案内人の方など。

だれと話しても、ごまかしやあいまいさがなく、おだやかなことばできちんとした言葉を使って話し、正統な対話と質疑応答ができた(日本ではほとんどできない)。
Wikipedia ウクライナ)  

        ウクライナ訪問記 : チェルノブイリ、キーフ(キエフ
「ウクライナの放射能対策について、避難移住は強力に行ったが汚染食品制限は不十分だ。食品の放射線規制を強化すべきではないか」という問題意識をもってウクライナを訪問した。
今回の訪問でおそらく答えが出ると思う。

汚染食品制限を厳しくすると農作物のどれだけをやめることになるのか、汚染されていない食品を供給することが経済的に余裕がないウクライナやベラルーシでは難しいことがわかる。

今回の訪問中、ワークショップや機会を見つけて、専門家や関係者と質問や議論をしたいと考えています。7日から3日間チェルノブイリと周辺を訪問予定だ。

       10月6日  キエフ到着
先発の3人は10月5日仙台発。私は1日遅れで10月6日 8時5分仙台空港発、成田、モスクワ経由で現地時間19時40分キーフ空港着。

キーフ空港からバスでキーフ駅に向かう。車内で約30歳の男性が話しかけてくれた。コンピュータ関係の仕事をしていて韓国滞在経験があり英語が通じる。
質問されて、チェルノブイリなど訪問とワークショップの目的と、正教の教会などを訪れたいが時間に余裕がないと話した。
「教会はほとんど行かない。自分は科学者だから宗教を信じておらず無宗教だ」と言っていた。正教の教会に通う人が多いかと想像していたが、後で調べたら、ウクライナ人の70%が無宗教らしい。

キーフ駅から大通りを歩いてホテルに向かった。キーフ駅前の大通りだが通行人は数えるほどと少なく、危険な感じは全くなかった。日本の旅行会社でもらった地図がわかりにくく、道を尋ねたかったが人通りは少ない。

旅行会社の地図がわかりにくく少し迷って15分くらいかかってホテルに着いた。
ウクライナ語表記はキリル文字からローマ字に移行中だと何かで読んだが、ウクライナ語表示は見た範囲はすべてキリル文字だった。ローマ字表記は外国の店の表示くらいだった。

後で尋ねてみたが「キリル文字からローマ字に移行していることはないだろう」とウクライナの人が言っていた。
街路や公共施設とともに、町のいろいろな看板や表示はロシア語ではなくクライナ語で表示されているようだ。
 意味は分からなくても、キリル文字のロシア語読みは知っていたので、地名や建物などの固有名詞や、英語など外国語や外国企業名をキリル文字で表記した外来語がわかり予想外に役立った。
キリル文字初めての実体験。ちょっとうれしい。

 ホテルに18時無事到着。先発の3人に無事合流した。

ピシュパラール先生がホテルの玄関前で待っていてくれた。
のんびりあるいてきたので恐縮した。

ホテルWiFiを使ってメモを書いたが、途中でトラブル。ホテルのWiFi システムのトラブルとわかった。
明日専門家が来て直すということがわかったが時間を浪費した。

夜中、ホテルのそばの24時間営業のスーパーマーケットに行った。
日本の大手スーパーと比べても農作物。畜産物や乳製品など食材が量も種類も豊富で、放射能汚染を考えなければ、高品質で安い。
ウクライナで生産されない、パイナップルやバナナ、グレープフルーツなども豊富に安く並べられているのは驚きだった。

柿を売っていたのも驚き。小学生の頃「黒海で食べた赤い柿」というエッセイを読んだことがあり、その文章の何がおもしろいのか価値があるのかわからず、そのことが印象的でタイトルだけを覚えていたのを思い出した。

果物や野菜は豊富だが、緑や赤の小さいリンゴなど品種改良されていないものが多い。
日本でいえば50年前のリンゴやトマトという感じだった。

買いたいものがたくさんあったが放射能が不安なので控えた。
野菜、果物、乳製品が豊富だ。菓子や加工食品も日本と変わりないように種類も量も豊富に見える。
首都だから特別に商品がそろっているのかもしれない。

魚は海の魚は少ない。あっても乾物が多い。生魚は鯉など淡水魚が多い。
海がほとんどない国で、たくさん輸入する経済力も低いから当然かもしれない。
冷凍や冷蔵食品を流通するシステムが不十分なのかもしれない。

直径30cm位で4人でもたべきれない主食のパンは50円くらいで特に安い。主食のパンは政府が特別援助していると思う。
他のパンも安かったが菓子パン類はわりと高かった。

チーズは日本よりは安いが、人々の収入と経済レベルが低いことと大酪農国であることを考えると安くないと思った。
ウクライナの人にとってチーズは大切な食品のようだ。

ソ連時代は消費物質が欠乏して、マーケットに行ってもチーズは冷蔵庫の底に1種類だけ、数も少しあるだけで、手に入ればよいほうで選択できる状態ではなかったという。

明日の予定もあり、疲れたのでここで就寝。第1日目終わり。

     10月7日   チェルノブイリ原発訪問。
日本からのわれわれ4人のグループと、依頼していた、博士論文執筆中の30歳代前半の物理学者チーヒイー アントンさんが日本語・ウクライナ語通訳として2日半、同行してくれる。

アントンさんは頭脳明晰で博学だ。
世界の5か国以上を訪れたことがある。外国滞在最長は日本の9か月。
日本語をウクライナで勉強したあと日本語勉強のために東京で語学学校に通って、日本語や日本につて勉強した。

適切な日本語単語が出てこないときは近い単語をいろいろ試して、さらに適切な言葉を探し選択を試みる。
日本人の9割以上の人はできないであろう正確な日本語を、正しく的確に厳密な単語の選択をする。

どんなことにも関心と知識があり、それに関して自分で再吟味して自分の考えを持っている。
2日半同行して、原発、放射線のことや、ウクライナや日本の歴史、文化などたくさん話をした。原発についても専門的な会話をした。

運転手含め6人で、キーフのホテルからチェルノブイリ原発を訪問した。
チェルノブイリ原発は首都キーフの北、直線距離で120 km。
ブナ、白樺などの美しい広葉樹の雑木林とアカマツ林が続く。アカマツは植林したものだ。
ロシアのような、針葉樹の大森林ではない。

チェルノブイリ汚染地域 第一ゲート。原発から25㎞。これよりゾーン。
空間線量はゲート付近で0.28μSv/h と高かったが、ゲートから少し離れると0.05と低かった。
今年7月、郡山市を訪れたとき、除染済み公園の空間線量掲示が0.25だったので、その値に近い。

検問所案内人の方:事故後からチェルノブイリ原発で、訪問者への対応や案内説明などをしてい55歳くらい。
この後、私たちの車に同乗して、原発内を案内してくれた。

彼は生きがいを感じ、喜んでチェルノブイリ原発案内の仕事をしている。
「年間56日休暇があり、旅行費用も出る。定期検診と必要なら医療もある。検診で問題がでたら別の職場を準備してくれる」と言っていた。

管理人のかたから説明を聞き、記帳した。
これよりゾーン内は飲食、たばこ禁止、測定器や物を地面に置かない、出るときは靴底の土などをよく落とす、汚染していないか検査して出ることなど。

サインをして、彼が車に同乗して森の中の道を原発に向かった。
ゲートにもう一人かふたり係りの人がいたと思うが、その他訪問者など、見渡す限りだれもいない。

第一ゲート付近は線量が高かったが、少し離れると0.05に下がった。
車で原発に向かった。第1ゲートを出ると空間線量は下がって、旧消防署跡で0.18、原発が見える4号炉から約3kmに近づいてもあまり上がらなかった。多くは0.1μSv/h以下だった。

爆発した4号炉に近づくと空間線量は高くなった。第3ゲートを過ぎて原子炉1~1.5kmkm手前では0.44μSv、 1kmで1.36μSv、 800mで 1.92μSv。4号炉から4~500m位の小さな資料室付近で3~5.46μSv/h。 ここから先は立ち入り禁止。

第1ゲートからチェルノブイリ原発4号炉直前に至るまでと、原発敷地内見学、原発に接したプリピャチを訪問して、再び25㎞ 南の第1ゲートに戻るまで50km以上、数時間の間に遠くから見かけた人も含めて、見た人の数は、警察やトラック運転手と見学者数人の1グループなど、全部合わせても20人程度だった。
予想よりはるかに少なかった。

「発電はしていないが、現在でも毎日2800人の人がチェルノブイリ原発で働いている」と日本のテレビ特集でいっていたので、おそらくそうなのだろうと思うが、広大な敷地やたくさんの建物があるので、私たちが会わなかったのかもしれない。月曜日だったので休日ではなかったと思う。

構内のあちこちで車を止めて撮影した。
案内人の人にいろいろ質問をした
質問するとなんでも答えてくれる。
秘密の様子は全くない。
専門的で知らないことは、「こうかもしれない」とか「知らない」と友好的に説明してくれる。

4号炉は写真で見た通りの外観だが、壁はコンクリートで固められているのではなかった。
4号炉全体がコンクリートの一塊に固められているのではなく、外壁の下1/3くらいの高さ、下の部分は厚いコンクリート壁で覆われ補強されている。その上は普通の十センチ強くらいの普通のコンクリート板を繋げた壁だけだ。
日本に帰国してから得た知識によると、汚染拡大を防ぐために、遠隔操作で急ごしらえで造ったコンクリート壁が石棺ということだ。
だからコンクリートで固めた石棺という理解は誤りで、通常のビルの壁よりも強度はない。壁も厚くない。

急ごしらえで造って25年もたっているので、壁の構造や機能に問題が生じている。
昨年、石棺の屋根の一部が崩落して問題になった。

チェルノブイリ4号炉は石棺として固められ、25年以上たって壁の一部から放射性物質が漏出してくるのを避けるためさらに石棺の上からコンクリート全てをコンクリートで固めて再度補強工事をしていると、私は誤った想像をしていた。

石棺は、コンクリートで一塊に固めた原子炉建屋ではなかった。
石棺という言葉について質問した。「石棺というのはメディアがつけた言い方だ。正しくはシェルター。 コンクリートで固めてしまうわけではない」との返事だった。

             チェルノブイリ原発事故資料室
4号炉から400m位のところにある 20坪弱の小資料室を見学した。ここはカギがかけられて、だれもいない。同行した案内の方がカギを開けて中に入った。
4号炉の模型があった。

模型を見ると、爆発で多くの機材や建物お一部が破壊されてがれきとして散乱したり、壁などの構造物の一部が破損しているが、事故後に作られた構造物はほとんどなく基本的に建物内部や構造、空間は事故以前のままだ。
新しい構造物は、1階から4階まで部屋がコンクリートで埋め固められて柱のようになっているところが2か所くらいあるだけだ。
それ以外は、原発の建物内部の空間は、爆発で破壊された機材や構造物が散乱しているが、建物の基本構造や建物内の空間は残っている。

4号炉建屋の建物内で放射線が高いところは、10Sv/hr という。 短時間いるだけで死ぬ超高レベルの場所がある。

ウクライナの法律に従って、爆発した4号炉も残りの1~3号炉も廃炉にして原子炉は解体撤去する方針という。
4号炉炉解体撤去の具体的方針、手順は事故の後さほど時間がたたないうちに作られ、実際、廃炉に向けて現在作業中だ。最も基本的な解体準備は巨大シェルター建築だ。

シェルターは、基本はかまぼこ形の鉄骨構造を2つ造る。
高さ108m、幅250m。天井には 廃炉作業の中心になる巨大クレーンなどを設置する。

このシェルターは、4号炉から400m位のところで現在建設中だ。2つのうちの1つの外観はほぼ出来上がっている。これを2つ造った後、レール上を4号炉の上まで移動させて、4号炉を完全に覆って解体作業に入るという。

4号炉解体、撤去作業はヨーロッパの基金でヨーロッパの多数の企業が参加して行っている。
シェルター建設だけで1000億円。
4号原子炉解体撤去の完成予定は50年後。

原発事故後、1,2,3号機は発電を続けていると認識していたが、私の認識誤りで、これらはすでに事故後数年で運転を停止し、すべて廃炉、撤去する方針だという。

1,2,3号炉の廃炉、撤去は破壊された4号炉の困難と比べれば、困難は少ないはずだ。
1,2,3号炉の撤去作業も開始しているのか、どのように撤去していくのかについては、質問し損ねた。

4号炉の解体は国際的な援助によって進められているが、1~3号炉はウクライナ政府が自前でやらなければならず、その資金がないために、着工していないのかもしれない。

        プリピャチ訪問
原発で働く人のために原発に隣接して作られた旧プリピャチ市。原子炉から3km。
事故当時の人口約4万5000人。
原発事故長後、ソ連政府が2000台の大型バスを動員して1日で住民を全員退去させたのがこの町だ。
空間線量は0.05 μSv/h と仙台市内の低線量の地域と同程度だった。

よく整備された広場や街路や学校やホテルなどがあり、美しい森に囲まれた美しい町(だったことがわかる)。
ソ連の町は、プリピャチに限らず、学校、文化施設などの建物や公園などはどこの町でも整備されていたという。

観覧車やゴーカートがある遊園地は町のほぼ中央に作られて、事故5日後の5月1日が開園予定だった。
一度も使われることなく、開園直前の状態で廃棄されてそのままになっている。

当時ソ連は生活物資が不足していたが、プリピャチは消費物資も優先的に提供されて、近くの農民たちが買い物に来ていた。

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